前回は今のところ最も妥当だと考える神武天皇の建国年について、西暦の紀元頃(~1世紀のどこか)としました。
中学校の授業では建国と日本統一を区別して扱い、それを崇神・垂仁・景行の10~12代天皇の時代と想定して扱ってきました。もちろん諸説あってまだ確かではないが、という留保付きです。
ぼくは学問もなく学問的な訓練を受けたこともないので、いいかげんですが、ごく普通の読書人としての考えです。これまでいろいろ古代史の研究を読んできて、まあそのいいかげんさにあきれ果てた結果の判断ですが、いまのところ若井敏明さんの研究にしたがっています。
古代史の研究者のほとんどは、記紀は創作だから信じてはダメだけどシナや朝鮮の史書は歴史だから事実が書いてあるという立場です。ですが、記紀をまったく使わないわけではなくて、自分の説に都合の良いところだけつまみ食い的に使います。それはおかしいだろ!といのがぼくの立場です。
そんな中で日本書紀を歴史書として正統に扱っていたのが若井さんでした。田中卓さん以来の堂々とした研究者だと思えました。最初読んだときはこんな人がいたのかと驚きました。
『邪馬台国の滅亡-ヤマト王権の征服戦争』(吉川弘文館)2010
『「神話」から読み直す古代天皇史』(洋泉社)2017
『謎の九州王権』(詳伝社新書)2021.3.10
原点は巻向遺跡を崇神・垂仁・景行の10~12代天皇としてこれを3世紀半ばとすること。
あとは考古学的な成果と『日本書紀』を照らし合わせながら、確かなところをおさえていく。
そうするとヤマト王権(大和朝廷)と九州王朝(卑弥呼の連合国家=倭)とが2世紀頃から併存していたことになる。
『日本書紀』に出てくるヤマト王権の九州遠征は、4世紀後半の景行天皇と4世紀後半の仲哀天応・神功皇后だけです。
景行天皇の経路は北部九州には入れなかったが、2回目の神功皇后が北部九州まで抑えて朝鮮に出兵し百済と組むことになった。
このときに九州王朝が滅びたとして、若井さんは、西暦367年~369年と推定している。
『日本書紀』を歴史書として扱う一貫性。
ご都合主義が見られない。
考古学的な発見との整合性もおさえる合理性。
何よりもご都合主義名なところがなくて、無学の者にもわかりやすいのがいい。
これまでの古代史研究と違って読むとなんだかすっきりするので気に入っています。ただときたまちょっと変な表現があるがまあ許せる範囲かな。
ということで、大和朝廷が九州までおさえて日本の統一王朝となったのは4世紀後半という理解です。前方後円墳の波及状況ともぴったり重なっているのでしばらくはこれでいこうと思います。
(注)日本統一の5世紀を4世紀後半に直します!
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