日本の立憲政治・民主主義は西南戦争の尊い犠牲の上にスタートします。
自由民権運動が攻撃した薩長藩閥政府はいわゆる「天皇親政」の政府です。だから天皇に親任されていればそれが政権の正統性でした。かつて摂関や院や幕府が正統な政府であったのと同様です。
それを疑い公正で国民的な正統性を求めたのが士族の反乱であり、自由民権運動でした。
一方藩閥政府側は「維新の功労」が正統性の根拠でした。しかし明治10年を過ぎると薩長だけが功労者というのはおかしいという自覚が伊藤たちの側にも生まれてきます。
両者とも、西洋近代の立憲性・民主制の方に歩き始めていることがわかります。大久保利通も明治4年の頃には新日本の政体は「君民協治(立憲君主制)だ」と建白していました(君主専制も共和制もダメだ否定していました)。伊藤はそれを継承しています。
ところが、この授業をつくった当時も20年後の現在も、教科書のストーリーは自由民権派が民衆の側に立つ正義であり、藩閥政府は支配者の側に立つ悪であるというものです。
政府による過酷な弾圧が教材のほとんどを占め維新政府を否定的に描いています。
秩父事件のような借金苦による暴動も正義の革命運動のように描かれてきました。
「だから日本は侵略国家になっていった」というストーリーです。自虐史観の始まりです。
このストーリーを否定して史実にもどすことをめざしてつくったのがこの授業でした。
板垣も大隈も伊藤も「立憲君主制」をめざした。
tyle=”letter-spacing: 0.2px;”>その目的は立憲主義が正義だからというよりも「列強と対等な独立国になる」という目標のための手段としてめざされています。この目標が自由民権派と藩閥政府に共有されていました。争点は「いつやるか」だったというストーリーになっています。
いまだったら自由民権運動の思想的な意義をもう少し取り上げたほうが良いかなあと思っています。この運動なしに、藩閥政府だけで自発的に立憲制度を推進できたとまでは言えないでしょうから。今後の課題です。
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