「南北朝正閏論」に関して二回書きましたが、この問題に決着がつけられて国定教科書から北朝が消された翌年に明治が終わりました。あまり注目されませんが、これは大正・昭和前期の日本の教育を方向付けた重要な事件でした。少数派の学者が、校長たちをはじめとする教育現場の強い世論と山県有朋などの一部政治家の力を借りて、多数の学者の常識を押し切ってしまいました。
国定教科書で、「南北朝時代」が「吉野朝時代」に変わり、北朝はなかった(天皇もいなかった)ことにされ、足利尊氏はじめ北朝方武士は「逆賊」とい明記されるようになったのはそれからのことでした。
教科書編纂の責任者だった喜田貞吉は東大をクビになりましたが、私学にはまだ学問の自由はあり、これは「忠君愛国教育を進めるなければならない」とする国定教科書と教育現場の問題でした。
なぜ南朝を正統とするかといえば明治維新を動かしたのが後期水戸学だったからです。後醍醐天皇の親政こそ正しい日本であり、楠木正成ら南朝方の武士こそ忠臣だというイデオロギーが幕末の志士を動かし、明治の政治家・官僚・教育者の多くが後期水戸学の国体論に依拠していました。
大日本帝国憲法の理解や明治の国体論の理解も水戸学的な「天皇親政」に依拠する山県有朋などと、大英帝国的な「議院内閣制+君主制」をとる伊藤博文らが対立していました。南北朝正閏論争には様々な思惑が交錯しています(松本清張『小説・東京大学』)が、この決着のさせ方は、「教育は天皇親政論的な理解でやっていく」「大学の史学は学問の自由を守ろう」ということだったのだと思います。
しかしこの流れが昭和恐慌など社会環境の変化に押されてどんどん前面に出てきます。それが昭和10年の天皇機関説事件でした。天応機関説事件によって大学にも政治にも水戸学的天皇親政論的な国体論が及ぶようになり、学問の自由が急速に失われていきました。美濃部達吉の著書は発禁になり政府は「国体明徴声明」で学説を大学で講じることも禁じられました。ここでも活躍したのはやや非常識な言論人と政党と役人(軍)でした。これはわが国の言論の自由・学問の自由にとって大きな不幸でありました。この事件のつくられ方は南北朝正閏論とよく似ています。ただ南北朝正閏事件も「大逆事件」なければどうなっていたかわかりません。
天皇機関説事件の場合も猛威をふるったのは、政府の権力というよりは、国会・野党・民間の言論人という民間側の「より極端に走る世論」だったことがたいへん重要です。民間の言論機関や新聞・雑誌などが、表現の自由・自由な言論を圧殺していったのです。
SNSなどで言論が動いていく現状はやむを得ないとはいえ、その危険に気をつけていかなければならないと考えます。国家の過ちをより少なくする最後の砦が「言論の自由」を守ることなのです。
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ところで「日本が好きになる!歴史授業」はどっちなの?
と聞かれれば、24時間目の授業『後醍醐天皇と鎌倉時代』の授業で示した通りです。
「南北朝時代は京都の朝廷と吉野の朝廷という2つの朝廷があり天皇も二人いた不幸な時代でした」という理解で授業をつくっています。
つまり両方とも朝廷であったという理解であり、楠木正成も足利尊氏も日本を支えた偉人であるという理解です。
天皇の代数(今上天皇は第126代)を南朝で数えるのは宮内庁の定めに従っています。
後期水戸学は近代思想の日本的な現れとして今後も学ぶべきところはたくさんありますが、その思想がもたらした近代日本のゆがみもあり、今後も科学的な学問・実証的な学問の成果にしっかり依拠しながら、つねに可能性の中心を読んでいくようにしたいと考えています。
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