先日小山先生の論文で、南北朝正閏論の経緯をメモしてみた(7/26)。
これには前史があって、それは久米邦武の論文「神道は祭天の古俗」問題だ。科学的・実証的歴史学は儒教の考証学にもあったが、西洋の歴史学から来た。
この論文が不敬であると問題になり、久米は大学を非職となった。久米には「神に子孫があるのは科学的におかしい」と言う意味の論述もあった。天皇の神性を疑うのは社会の安寧をおびやかすおそれありとされた。しかしこいれはまだ象牙の塔の内だったのでこれでおさまり実証史学はそのまま前に進んだ。
20年後の南北朝正閏論問題は「教科書問題」だったことが問題を大きくした。
これも江戸時代までは公式には南北朝並立論であり、実証史学でも南北に朝廷があったことは事実なのであり、そもそも明治天皇は北朝系だからと、喜田らの編纂者は国定教科書を南北朝並立で書いき、それは数年使われていた。
それに現場の校長たちが抗議の声を上げた。
・明治の教育は南朝の忠臣を手本にして忠君愛国を教えている。尊氏は逆賊ではないか?
・万世一系を教え、一君への忠義を教えていながら、一方で二君があった時代があるというのはおかしいだろう!
最終的には伊藤暗殺後の元勲山県が動いて決着した。
・南朝が正統である。三種の神器もある。
・足利尊氏は逆賊である。京都に朝廷はなく天皇もいなかった。
・南北朝時代はなく、吉野朝時代だった。
教科書にはこう書かれるようになった。
この問題は思いの外深く、20年前にこの時代の授業をつくるとき少し勉強もしたが、最後までつめられず時間がなくて見切り発車の授業をつくった。
とにかく全授業をつくることを優先したということです。
それが29時間目の「後醍醐天皇と南北朝時代」だった。
これはほぼ喜田貞吉の国定教科書に戻して「南朝正統的な南北朝並立論」をベースに授業をつくった。
・時代名は「吉野町時代」ではなく「南北朝時代」とする。
・天皇が二人いた不思議な時代と呼んだ。北朝も南朝も天皇とするが、一系の代数は南朝で数える(これは戦後の教科書はすべてそうなっている)。
・足利尊氏を「逆賊」とはせず、楠木正成や新田義貞同様に日本のために尽くした人物とし、室町幕府の初代征夷大将軍する。
・後醍醐天皇の「天皇親政」(公家政治)を必ずしも評価してない。
こういう次第で、ぼくの授業は「戦前の皇国史観ではない」といえると思う。
これから少しずつ考えていくが、明治という時代はとても複雑だと言うことがわかてくると思う。その複雑さが大正・昭和に影を落としていると思うのだが、もう少し時間をかけたいと思う。
ところで明治天皇はじめ皇室は、国定教科書が変わってからも自らのご先祖である北朝の天皇も南朝と同様にお祭りをされてきているそうである。
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