教師のための歴史授業セミナーin市川



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10月18日(土)は市川で「教師のための歴史授業セミナー」の3回目をやりました。
日本の朝鮮統治や昭和の戦争を正しく教えようという内容を、模擬授業のかたちで提案しました。

義務教育段階の歴史教育は
「日本は世界に誇れるほんとうにすばらしい国だとわかった。日本に生まれてほんとうによかった!」
という認識と自信をゆるぎないものとすることが最も重要であり、この目標を決して外してはならないということです。

自国に誇りを持てれば、自分にも誇りが持てるようになり、自己肯定感をしっかり持った自我が育ちます。児童生徒の道徳性も確実に高まります。

しかし、新聞や教科書や図書館に置いてある本のほとんどにはウソばかり書いてあるので、これからいっしょ勉強して参りましょうという呼びかけをいたしました。

これでシーズンⅠは終了、来年度はさらに実践的な内容にしていこうと考えています。3回でのべ100名の先生方が参加してくださり、リピーターも増えました。千葉の先生はホントに素晴らしい方ばかりでした。渡邉先生はじめみなさまありがとうございました。

また、これをきっかけに義務教育の現場を変革する運動として、深く静かにねばり強く全国展開して参りたいと思っています。
わたしたちはまだ小さな力しかありません。
みなさま、どうかお力を貸してください。
よろしくお願いします。

受講者の感想文を紹介します。

「齋藤先生、有難うございました。「この国に生まれてよかった」と思えたのは、私自身です。歴史を子供たちに教える意味がわかりました。そして、それが真実であるということが。日本人として誇りに思います。早く教科書がただいい事実を伝えるべきことを望みます」

「今日、初めて参加させていただき、驚くことばかりでした。自分の日本に対する考え方や歴史に対する考え方は、小学校の頃に授業を受けたままでした。それが今日のお話を聞いて変わりました。今年は6年生を教えているのですが、その当時の人々の思いや考え方を伝えることができていないことがよく感じました。今日聞いた所の思いだけでもクラスの子ども達にしっかりと伝えていければと思います。先生が最後に仰っていた子ども達が日本に生まれてよかったと思えるよう私も努力を重ねていきたいと思います」

「前回、初めて受講し、今回のお話をお聞きして是非また受講したいと思ってまいりました。特に心に残ったのは韓国併合のお話です。七奪のこと、最近はニュースでもよく耳にするので興味を持ちました。真実を見極めること、知ることの大切さを強く感じた3時間半でした。最後の先生のこの国に生まれてよかったと子どもたちに思ってもらいたいという言葉、心に深く残りました。まだまだ勉強不足なので、もっともっと勉強して、自分自身がより日本という国を好きになって、それを子どもたちに伝えたいと思います」


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (1件)

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    【真理と自然観】

    《真理》

    結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

    “ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

    私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。

    《志向性》

    目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

    『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

    『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

    我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。

    《思考》

    『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

    思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

    『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

    『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

    考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。

    《生命観》
    『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

    『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

    生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

    生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

    *己と自の発展
    己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

    己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

    『志向(作用)→肉体・機構』

    然の理・然性
    自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

    然の理・然性(第1法則)
    然性→志向性(第2法則)

    【世界創造の真実】

    世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

    しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

    言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

    これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

    例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

    そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

    愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

    私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

    しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

    「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

    同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

    「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

    神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

    あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。

    【真善美】

    真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

    善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

    △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

    千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

    美は活活とした生命の在り方。

    『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

    予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。

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