★ポーツマス条約が結ばれ、関税自主権が回復されて、ようやく幕末以来の日本人の願いが、近代日本の国づくりの目標が実る。その感動の現場に児童生徒たちを立ち会わせよう。
1 戦争の終わらせ方
ロシアのような強大な国と戦争をすると決めたとき、日本のリーダー伊藤博文がまず最初に考えたことは、どうやってこの戦争を終わらせるかということでした。日本はロシアを征服したいわけでは亡く、祖国をロシアの侵略から守りたいだけですから、ロシア軍を満州から追い出せればいいのです。
どこか途中で戦争を終わらせなければなりません。
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│ 伊藤博文はどんな手を打ったのでしょうか? これは、戦争を終わらせるには │
│ どうしたらいいのかという問題です。 │
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*アイディア(思いつき)を発表させ、ほめる。
◆伊藤博文は、戦争が始まるとすぐに金子堅太郎をアメリカに派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲介を頼んでおいた。ルーズベルトと金子はハーバード大学の同窓生でした。
ルーズベルトは、日本海海戦の勝利を見て感動し、ただちに仲介に乗り出してくれた。
日本はこれ以上戦い続ける力は残っていなかったので、まさにグッドタイミングだった。
2 ポーツマス条約
アメリカのポーツマスで講和会議が開かれた。
◆板書:明治38年(1905)8月 ポーツマス講和会議
日本代表(小村寿太郎)
◆小村の写真を貼る
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│ 政府は小村に対して、戦争を終わらせるために、これだけは絶対ロシアに受け入れさせなければならない要求を
指示しました。 │
│ それは次のどれでしょうか? │
│ │
│ A:樺太を日本の領土にする。 │
│ B:賠償金をはらわせる。 │
│ C:韓国のことは日本にまかせ、口出ししないと約束させる。 │
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*意見分布をとり、話し合わせる。
◆正解はC. これ以上戦いを続けられない日本が賠償金を取ることはできなかった。
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│ 国民は小村寿太郎をどのように迎えたでしょうか? │
│ A:拍手で迎えた B:ブーイングで迎えた │
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*意見分布をとり、話し合わせる。
◆資料「小村寿太郎とポーツマス講和条約」を読んで、事実を知る。
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小村寿太郎とポーツマス講和条約
小村寿太郎はペリー来航の二年後、宮崎飫肥(おび)藩の武士の家に生まれました。明治七年イギリスに留学して法律を学び、四十六歳で外務大臣になりました。
小村は友人にこう話していました。
「貧乏に生まれたのが一つの楽しみ。国を愛するのが二つ目の楽しみ。国のためにつくすのが三つ目の楽しみ」
この言葉の通り、小村は外交官として偉大な仕事をしました。
第一は日英同盟(にちえいどうめい)をむすんだことです。
これがなければ日露戦争は戦えなかったでしょう。
第二はポーツマス講和会議(こうわかいぎ)に日本代表として出席して、ポーツマス条約を結んだことです。
ポーツマス会議に出席した小村に、政府は次のように指示していました。
「交渉は厳しいものになるだろうが、これだけはゆずってはいけない要求が一つある。それは、
『①日露両軍が満州から引き上げ、韓国のことは日本にまかせる(ロシアが口出ししない)』
と約束させることだ。
できれば、②ばいしょう金を取る ②樺太(からふと)を日本領土にする、などを勝ち取ってほしい」
なぜ朝鮮半島と満州(まんしゅう)がいちばん重要なのでしょうか。小村寿太郎は言います。
「平和、平和と百万回となえても、平和を手にすることはできない。
真に平和を望むのなら、国防を確立することだ。
敵を一兵たりとも国内に入れないための備えをすることだ。
そのためのたった一つの方法は、大陸に鉄条網をはることである」
大国ロシアから日本を守るには、通り道である朝鮮半島を日本の防波堤にするしかないというのです。また、朝鮮とロシアの間にある満州も重要な場所になります。
ロシアは、①は受け入れましたが、他のことは強く反対しました。まだロシアは完全に負けたわけではないからです。
しかし、小村はかんたんには引き下がりません。
ねばり強い交渉を続け、①だけでなく、②樺太は南半分を日本領土とする、③遼東半島(りょうとうはんとう)の一部を日本の領土(りょうど)とする、④満州の鉄道を日本が経営する、をかちとりました。
しかし、ばいしょう金を取ることはできませんでした。イギリスから国家予算の何倍もの借金をして戦った日本にとって、これはきびしい結果でした。
しかし、伊藤博文などリーダーたちは、小村のがんばりをほめました。「戦争を続けてもいい」と言うロシアにここまでゆずらせた小、村の努力がよくわかっていたからです。
しかし、帰国した小村を待っていたのは、国民のはげしいブーイングでした。
国民は「二十万人もの血を流してこれだけか!」と怒り、東京では暴動(ぼうどう)が起きたほどです。国民は、日本にはもう戦う力がないことを知らなかったのです。
もし小村がポーツマス講和条約(こうわじょうやく)を結ぶのに失敗していたら、戦争は再開され、日本はこんどこそあやうかったというのが真実でした。政府も小村も、それを国民に言うことができず、国民の抗議にはだまってたえるしかありませんでした。
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■板書:ポーツマス条約①韓国は日本に任せる。
②樺太の南半分、遼東半島、
③南満州鉄道の経営権
*賠償金は要求しない。
◆地図に、日本領土を赤く塗る。
◆西洋列強ならば、20万人の死傷者を出して占領した満州全土を自国の領土としたことでしょう。しかし日本は遼東半島と満州鉄道を手に入れただけで、残りはすべて清に返してしまいました。真の帝国主義国にはなれなかったのです。これが昭和になってから苦しみの元になります。日本の善意がすべて裏切られていくのですが、それはまた後の話です。
3 戦争の結果
『その5年後、日本は決定的なある決断をしました。朝鮮を日本領土にしたのです。朝鮮に攻め込んで支配したのではなく、条約を結んで支配したのです。賛成した朝鮮人もたくさんいました。反対だった朝鮮人もたくさんいました。ロシアなら、迷わず支配したでしょう。伊藤博文などは「保護国のまま独立は維持する」という考えでした。しかし、韓国が自力で独立を守り近代国家を築くことは不可能でした。その伊藤も朝鮮人安重根に暗殺されてしまい、日本は韓国を併合することを決断します。韓国からも併合を希望する人々の声が高まっていました。日本は、日本の安全のために、韓国を日本領とする立場を選んだのです。韓国政府と日本政府は条約を結んで合法的に韓国は日本の一部になりました』
◆板書:明治43年(1911) 朝鮮併合(1945まで)
◆西洋列強は、日本の韓国併合を当然のこととして受けとめました。弱肉強食が当たり前の時代でした。多くの国民の血を流して勝ち取った立場だからです。【帝国主義】
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│ その翌年、小村寿太郎は外交官として、ある偉大な仕事をしました。 │
│ それは何でしょうか? │
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◆板書:明治44年:関税自主権を回復した→不平等条約の完全改正
◆ペリー来航以来の悲願、明治の国作りの大目標「西洋列強と対等な国」が実現したのです!!!
◆日英同盟、日清・日露の戦い、そして朝鮮併合によって、ようやくペリー来航以来の日本人の夢がついにかないました。
西洋列強と対等につきあえる正真正銘の独立国になったのです。
明治になって44年、ペリー来航から約60年、維新の志士たちやそれを受け継いだご先祖さまたちの団結と死にものぐるいの努力がようやく実ったのです。
(万歳!)
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