★領事裁判権(治外法権)の撤廃をめざした苦闘の歩みを学ぶ。陸奥宗光がその第一歩を達成した。陸奥の偉大さは教えるが、しかし、それはたんに一外交官の手柄ではなく、名に日本の官民一体の団結と努力が成し遂げたことであることを教えよう。ようやく、明治の目標{列強と対等につきあえる国}の半分が達成できた。後の半分は、戦争の実力を見せなければ達成できなかった。明治日本が置かれた過酷な運命を思いたい。
1 ノルマントン号事件
◆ビゴーの絵「ノルマントン号事件」を見せる
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│ この絵を見て、疑問に思ったことをノートに書きなさい │
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*発表させる。
◆板書:明治18年;ノルマントン号事件
◆事件の概要を説明する。
①1886年(明治18年)、ノルマントン号というイギリスの船が沈没した。
②横浜から神戸へ向かう途中、和歌山県沖で。
③救命ボートで助かったのはイギリス人だけ。日本人乗客23人は全員おぼれ死んだ。
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│ 日本人を助けず、見殺しにした船長ドレイクは裁判にかけられました。 │
│ どんな判決が出たか予想してください。 │
│ A:無期懲役 B:懲役10年 C:無罪 │
└────────────────────────────────────┘
*発表させる。
◆無罪が正解です。「私は早くこのボートに乗れと言ったのに、日本人は英語がわからず、ボートに乗ろうとしなかったのだ」という言い訳を、裁判長が認めたためでした。
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│ この裁判長に明治の日本国民はたいへん怒り、抗議しました。 │
│ みなさん、ご先祖様になったつもりで話してみてください。 │
└────────────────────────────────────┘
*発言させる。
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│ その抗議が認められて、もう一度ドレイクは裁判にかけられ、3ヶ月の禁固刑、│
│ ただし、賠償金はなしとなりました。それにしても、23人を見殺しにした罪 │
│ としてはあまりにも軽すぎました。 │
│ どうしてこんな軽い刑罰ですんだのでしょう? │
└────────────────────────────────────┘
*発言させる。
◆板書:不平等条約①外人が日本で犯した犯罪は、日本の裁判所が裁けない。
◆このほかにも、
・少女が暴行されて無罪(東京)、
・衝突で船が沈められて74人が死んで、相手が悪いのに損害賠償1万ポンドを払わせられた(瀬戸内海)。
・外人に杖でなぐられて殺されても無罪(新潟)
などが起き、新聞報道で国民の多くが疑問と怒りを持つようになった。
政府も条約改正にいっそう取り組むようになった。
2 井上馨の欧化政策
┌────────────────────────────────────┐
│ これは東京の鹿鳴館という建物で行われていたパーティの絵です。 │
│ 井上馨が進めた「日本西洋化政策」で、条約改正を進めようと言うのです。 │
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◆板書:「鹿鳴館」・・・日本のリーダーが西洋人のように行動して仲よくなれば、
条約改正ができるだろう
◆この際策を進めた井上馨は次のような案で、条約改正を進め、各国も認めようとしました。①日本がつくる法律は外国に見せて承認を受ける
②日本の裁判所の裁判官の半分以上を外国人にし、英語で裁判する。
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│ みなさんはこの案に賛成ですか、反対ですか? │
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*発言させ、理由を言わせる。
◆国民の反対にあい、条約改正は失敗する。これでは不平等条約よりももっと悪い。日本が外国にのっとられてしまったみたいだというわけです。
3 陸奥宗光の偉大な一歩
◆プリント「陸奥宗光」を配り、読む。
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不平等条約の改正に成功した陸奥宗光
陸奥宗光は田辺藩(たなべはん)(和歌山県)の武士の家に生まれました。ペリーが来たときは十才の少年でした。十五才で家を出て、二十才で勝海舟の海軍繰練所(かいぐんそうれんじょ)に入り、海軍や西洋の法律を学びました。このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬の海援隊(かいえんたい)(貿易会社)にも参加しました。陸奥宗光は一人で読書にふけることが多く、仲間とわいわいやるタイプではありませんでしたが、坂本龍馬だけは陸奥をたいへんかわいがり、
「海援隊にはすぐれた人物がたくさんいるが、自分の考えをしっかり持ち、独立してやっていけるのは、私と陸奥宗光だけだろう」と言っていました。
龍馬が暗殺されたとき、陸奥は、日本を西洋と対等につき合える近代国家にするために、坂本さんのバトンを受けつごうと心にちかいました。
陸奥宗光は、国会ができて新しい内閣の外務大臣(がいむだいじん)になり、不平等条約の改正に向けて努力をかさねました。それが、明治日本の最大の目標だったからです。
陸奥宗光はイギリスとの交渉(こうしょう)に目標をしぼり、ねばりづよく交渉していきました。イギリスは当時世界一の大国でしたから、イギリスが改正すれば、他の西洋列強(せいようれっきょう)も改正するはずだと考えたからです。
また、陸奥の工夫は「条約はすぐに改正するが、完全に実施(じっし)するのは五年後にする」という交渉をして、相手を説得したことでした。
陸奥宗光は国会で次のように演説しました。
「わが国はこれまで、開国して西洋から学び、発展してきました。貿易額(ぼうえきがく)は五倍になり、日本中に電線と鉄道がひかれ、海には大きな蒸気船(じょうきせん)がうかんでいます。軍隊も西洋にひけをとらないほどになりました。とくに、憲法と国会をつくり、重要な問題をこのように国民の代表が話し合ってすすめる国は、西洋以外では日本しかありません。この日本を、西洋の国々もおどろいて見ています。
さて、国民の中には『外国人の国内の行動を制限して、日本人とふれあわないようにすべきだ』という意見がありますが、これはまちがいです。西洋人も日本の国内で自由に行動できるようにしてこそ、不平等条約の改正が前進するのです。」
こうして、西洋人が日本のどこでも安全に自由に行動できるようにしたことによって、陸奥宗光はイギリスとの条約改正に成功しました。明治二十七年(一八九四年)のことです。他の西洋諸国もこれにならいました。
陸奥宗光は、これからの外交で大事なのは、まず自国に誇(ほこ)りを持つこと、相手を恐れず勇気を持つこと、そして強い国の仲間入りをすることだと言っています。
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◆明治27年(1894年) 不平等条約の一部改正(治外法権の廃止)
*外国人の裁判も日本の裁判所ができるようになった。
◆しかし、完全に対等にはならなかった。
◆板書:次は、日本の関税を西洋が決めるという貿易の不平等をなくすことが目標だ!
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