改訂版14「藩閥政府と自由民権運動」



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★自由民権運動は人権派で善、藩閥政府は反動的で悪、という教え方がふつうです。これは、日本国憲法を善とするために、大日本帝国憲法を悪い憲法と教えなければならないからです。しかし真実はちがいます。目標は同じ、対立は急ぐかゆっくりかの違いに過ぎませんでした。人権派と藩閥政府の国家間はまったく同じだったといっていいと思います。
日本共和国がいいという主張はありませんでした。子供には真実を教えましょう。

1 自由民権運動

◆プリント「自由民権運動」を読む
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 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)

 西南戦争が終わったとき、明治日本の偉大な三人のリーダーが、三人とも死んでしまいました。
 大久保利通(おおくぼとしみち)(薩摩(さつま))、西郷隆盛(さいごうたかもり)(薩摩)、木戸孝允(きどたかよし)(長州)の三人です。
 その後を引き受けたのが、伊藤博文(いとうひろふみ)(長州)です。

 伊藤は大久保利通の意志をひきついで「富国強兵(ふこくきょうへい)」の政治を進めました。明治日本の大目標をなしとげるには、これ以外に進むべき道はありませんでした。西郷さんなきあと、この方針に反対する人はもう一人もいませんでした。

 しかし、ここに新しい意見が出てきました。板垣退助(いたがきたいすけ)(土佐藩(とさはん))や大隈重信(おおくましげのぶ)(佐賀藩(さがはん))たちが、政府に提案した意見です。彼らはこう言いました。
「明治政府のリーダーが、いつまでも長州藩と薩摩藩の出身者だけ(藩閥政府(はんばつせいふ))なのはおかしい。西洋と同じように、国民の選挙(せんきょ)によってリーダーを選ぶべきである。」

この意見を広めていった運動を、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)といいます。それは、今の日本と同じような「民主主義(みんしゅしゅぎ)」の考え方の第一歩でした。
リーダーを選挙で選ぶようにするためには、次のことが必要でした。

①憲法(国の形や政治の進め方を決めた法律・・・国の基本になる法律)
②議会(国会・・・選挙で選ばれた議員が話し合って、法律や税金の使い方を決める)

┌────────────────────────────────┐
│■明治政府のトップだった伊藤博文は、この意見に賛成だったでしょう│
│ か? 反対だったでしょうか? │
│    A 賛成     B 反対 │
└────────────────────────────────┘
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【板書】
 タイトル「自由民権運動・・・民主主義の第一歩」
・国のリーダーは選挙で選べ→憲法と国会(議会)をつくる
 写真①「板垣退助」写真②「大隈重信」写真③「伊藤博文」

『AかBを選びなさい』

・人数分布を板書し、理由を言わせる。
◆伊藤博文はもちろん賛成でした。五箇条のご誓文に「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とあるとおりです。
◆国家目標である不平等条約改正にとっても、「憲法と議会」は日本が平等条約を結ぶための条件とされていた。これは既習事項なので生かせるといい。
◆大久保利通は「政体に関する建白書」で、君主専制、共和制、君民共治の三つがあるが、日本の伝統には君民共治(立憲君主制)が最もふさわしいと書いている。

2 藩閥政府と自由民権派の対立点

『政府も自由民権派と同じで、憲法と議会をつくりたいのなら、何が対立点だったのでしょうか?』
◆マークしながら、プリント「自由民権派の意見と政府側の意見」を読ませる。
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┌───────────────────────────────────┐
A 【「自由民権運動」側の意見】 板垣退助・大隈重信
│  急いでやるべきだ。このままでは薩摩と長州出身の一部の者の独裁政治(どくさいせいじ)が│
│ 続き国民の元気がおとろえてしまうだろう。四民平等(しみんびょうどう)ではなくなってしまう│
│ からだ。不公平なリーダーの決め方は、ぜったいによくない。 │
│  だから、国会(こっかい)を開いて、国民が選挙(せんきょ)で代表を選び、その代表が話し合いに │
│ よって政治を進めるべきなのである。 │
│  また、西洋列強(せいようれっきょう)は不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の第一の理由に「憲法(けんぽう)がなく国    会もない」│
│ ことをあげている。日本を、西洋と対等(たいとう)な国にするためにも、一日も早く│
│ やるべきである。 │
└──────────────────────────────────────────────┐
B 【政府側の意見】 伊藤博文

│  国のリーダーを選挙で選ぶべきだという考えは、政府も賛成だ。 │
│ しかし、今すぐそれをやるのは、たいへん危険(きけん)である。急ぐべきなのは、│
│ 富国強兵の政治であり、のんびり話し合って政治を進めるよゆうは、今の │
│ わが国にはないのである。 │
│  また、国民はこれまで何百年も、武士の政治にだまって従(したが)ってきたので、│
│ 政治がやるべき事がよくわかっていない。もしまちがったリーダーが選ばれた│
│ ら、日本の独立(どくりつ)もあぶなくなる。国民の教育を進めて、国民が国や政治につい│
│ て理解できるようになってから、選挙を行うべきなのである。 │
└───────────────────────────────────┘
『対立点は、今すぐやるか、時間をかけてやるか、だったことがわかりました。 あなたが当時の国民だったら、どちらの意見に賛成しますか。
 AかBを選び、その理由をノートに書きなさい』

◆人数分布をとり、話し合わせる。

3 国会開設を約束する

『こうした議論の結果、政府は9年後に議会政治を始める約束をしました』
◆明治天皇の写真を貼る
板書:明治天皇の約束・・・明治14年(1881)
    「9年後の、明治23年に選挙を行い、国会を開きます」

◆プリント「国会開設の勅諭」を読む。
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国会開設の勅諭

 私は平安時代からゆるんでいた天皇の力をふるいおこし、国を一つにまとめると共に、立憲政治を進めようと考えてきました。
 3年前に府県会(地方議会のこと)を開いて選挙を始めたのも、立憲政治の基礎をつくろうとしたからです。
 しかし、国の政治の仕組みをつくる仕事はそうかんたんにできるものではありません。
 今から9年間、政府も民間もしっかりと準備を進めるようにしなさい。
 そして、9年後には、憲法を作り、選挙を行い、国会を開くなど、これまで目標としてきたことを必ず実現することを約束します。
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『自由民権派はどうしたでしょうか?』

A:いますぐやれと、さらに反対運動を進めた。
B:約束に賛成し、それにしたがった。

◆大隈も板垣もっこの約束を喜んだ。自分たちも憲法案を作ったり、政党を結成したり、その日までに準備することがあったからだ。
◆自由民権派全体としてはBだったが、一部の過激派は暴力的な事件を起こした。(秩父事件など)
◆これは板垣退助『自由党史』から。
「自由民権運動の人々も、まるで雷にでも打たれたように言葉を失い、10年後には理想が実現することを喜んだ。そして、政党を作り、選挙のための準備を始めた」

4 政党ができた

板書:板垣退助「自由党」、大隈重信「立憲改進党」
   伊藤博文・・・・明治15年、憲法の勉強をするためにドイツに行った。

『官軍と幕府軍の目標が同じだったように、藩閥政府と自由民権運動の目標も一つでした。彼らは戦いながらも、しっかり協力して日本の次のステップを目指したのです。明治の日本人はっこのように明治天皇の下、しっかり団結していたことをわすれてはなりません。こうして政府と国民は、アジア初の立憲政治の実現に向けて準備を進めていきました』


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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