★砲艦外交の前で阿部正弘は条約の締結を選択した。日米和親条約である。開港して漂流民の救助などには応じたが通商関係は決めなかった。しかし、この条約で伊豆下田に領事として乗り込んで来たハリスとの交渉が続く。この条約に孝明天皇は反対し勅許は得られなかった。しかし大老井伊直弼は朝廷の勅許がないまま日米修好通商条約を結ぶ。この条約は日本を対等な主権国家とは認めない不平等条約だった。こうして幕末の動乱が始まる。
1 日米和親条約
■板書:一八五四年二月十三日 ペリーと7せきの黒船
こんどは、七せきの黒船が江戸湾に入ってきた。幕府の返事を開きに来たのである。
こんどは、いきなり江戸湾の奥まで入ってきて、空砲を打ち続けた。おどしだった。
■資料:黒船来航の図(台場の武士たちも描いたもの)、ペリー肖像、阿部正弘肖像
*阿部正弘の対策を話す。
・江戸湾の防備、台場の建設、各藩の防衛分担など
┌─────────────────────────────────────────┐
│ いよいよ最後の決断をしなくてはなりません。今日は、阿部正弘を議長とする幕府の │
│ リーダーたちの意志決定会議に参加してもらいます。 │
│ 次の、A、B、どちらかの立場を選び、その理由も書きなさい。 │
│ A:開国する B:鎖国の法を守る(戦争もやむなし)。 │
└─────────────────────────────────────────┘
*5分間与え、ノートに書かせる。
*真剣に討論させる。
■結論を教える。
【板書】◆一八五四年、日米和親条約を結ぶ(開国へ)
・長崎の他に下田と函館を開港する。
・まき・水・食糧などの補給
・下田に、アメリカの領事館を置く。
*オランダ、イギリス、ロシア、フランスとも。
◆一八五五年、条約調印の翌年に阿部正弘は死んだ。二十五歳の若さで江戸幕府の中心に立ち、ペリー来航のピンチに必死で取り組み、日本の運命を背負った大仕事のかたがつき、責任を果たして一年後だった。まだ三十四歳の若さだった。
2 不平等条約
■条約によって伊豆の下田にはアメリカ政府の領事館が置かれ、領事ハリスと幕府の間で交渉が持たれました。その結果、次のような条約が結ばれました。
【板書】一八五八年 日米通商条約
◆横浜港、神戸港を開き西洋人が住む町を作る。日・米(アメリカ)が交流し、貿易を進める。
◎イギリス(日英)・フランス(日仏)・オランダ(日蘭)・ロシア(日露)とも同じ条約を結ぶ。
┌──────────────────────────────────────────┐
│ この条約で、西洋諸国とつきあいが始まり、貿易が始められることになりました。 │
│ みなさんは、これで安心と思うかも知れません。けれども、この条約によって日本の危機は │
│ さらに深まりました。 │
│ それはなぜでしょうか、どんなピンチなのか予想してみましょう。 │
└──────────────────────────────────────────┘
■資料「不平等条約」
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不平等条約
徳川幕府が西洋列強と結んだ「修好通商条約」はたいへん不平等なものでした。(日米・日英・日仏・日蘭・日露)
不平等とは次のことです。
②西洋人の治外法権(領事裁判権)をみとめる。
【①について】
「関税」とは、貿易の輸入品にかける税金のことです。
対等な関係の国どうしだったら、関税は自分の国の判断で自由にかけられます。それは、どの国にも、関税をかけないとつぶれてしまうような弱い産業があるからです。
しかし、この条約では、日本には「関税を自主的に決める権利」が認められませんでした。
西洋の安い値段の商品に負けて日本の産業がおとろえれば、貿易でもうけるどころか、国の力がおとろえていき、いつかは西洋に支配されてしまうかも知れません。
【②について】
開国すると、たくさんの西洋人が日本に入ってきます。なかには日本の法をおかす人もいます。外国人が日本で犯罪をおかしたとき、日本にはそのを裁判する権利がないのです。このように、西洋人には日本の法律をあてはめないという約束のことを「治外法権(領事裁判権)を認める」といいます。
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★この二つの不利な条件を日本にだけはあてはめたので、これらの通商条約を不平等条約とよびます。
開国して貿易を始めた日本と西洋の強国とのつきあいは、大昔の中国と日本の関係と似たような国どうしの上下関係ができ、日本は西洋より低い(弱い)立場に置かれたのです。
この条約で、日本は欧米中心の力と力がぶつかりあう世界に国を開くことになりましたが、聖徳太子以来の国の独立が危うくなり、武士の国としての誇りも深く傷つきました。
■板書:不平等条約
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│ ①日本に関税自主権がない。 │
│ ②西洋人の治外法権をみとめる。│
└───────────────┘
■説明
日本は西洋の植民地になったわけではありませんが、この条約で西洋列強との間に上下関係ができ、日本は半独立国という立場になってしまいました。
日本中の武士たちの多くが、この条約には反対でした。戦わずして負けてしまったのと同じようなものだったからです。日本中の武士たちに、幕府の弱腰を批判する声があふれました。
日本は次の2つの意見に分裂してしまいました。
■A:開国派・・・条約を守り、新しい国づくりを進める。
B:攘夷派・・・条約をいったん白紙にもどして、攘夷を決行し、新しい国づくりを進める。
■国内の分裂は、西洋の思うつぼです。日本人同士が戦うようになれば、その戦いに西洋が入ってきて、日本が支配されてしまう可能性があるからです。
条約によって、日本はますますピンチになってきました。次回から、このピンチに活躍した何人かの人物を取り上げます。
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