授業「日米安保条約」 3



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4 吉田茂の選択・・・日米安全保障条約

■吉田はダレスとの交渉で、あくまで再軍備を拒み続けた。経済復興優先と言われるが、GHQ占領政策への意趣返しという思いもあったかもしれない。

[1953年の防衛費]
┌────────┬─────────┬──────────┬────────┐
│   国 │ 1人あたりのGNP │ 1人あたりの防衛費 │防衛費のGNP比│
├────────┼─────────┼──────────┼────────┤
│ ギリシャ │ 298ドル │ 25ドル │ 8.5% │
├────────┼─────────┼──────────┼────────┤
│ ポルトガル │ 166ドル │ 8ドル │ 5.0% │
├────────┼─────────┼──────────┼────────┤
│ トルコ │ 204ドル │ 13ドル │ 6.5% │
├────────┼─────────┼──────────┼────────┤
│ ユーゴスラヴィア│ 199ドル │ 36ドル │ 18.2% │
├────────┼─────────┼──────────┼────────┤
│ 日本 │ 200ドル │ 3ドル │ 1.6% │
└────────┴─────────┴──────────┴────────┘
                         坂本一哉『日米同盟の絆』より

■ダレスは次のように言って粘った。
「再軍備への障害というのは、克服すべき課題ですか、それともやらない言い訳ですか?」
「もしやる気があるのなら、やってみて、国民を説得してはどうでしょう?」
「国民の意識を変えるために、啓発活動はしないのですか?」
「あなた自身の考えが熟していないのを、国民のせいにしているのではありませんか?」

■吉田は、防衛努力ゼロのまま日米安保条約をまとめるのは難しいとみて、講和条約締結後に5万人の保安隊を設立を約束した。しかし、ダレスにはこう言っている。
「憲法改正は無理だから、国民が軍備を持ちたいと考えるまでは治安警察力としたい」
しかし、外務省が米国に提出した文書には次のように書いてあった。
①保安隊は再建される民主的軍隊の第一歩である。
②自衛企画本部を設ける。これは将来の参謀本部である。
外国には「軍隊」とし、国内には「警察力」とする二重説明がここに始まっている。

■こうして、1951年4月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれた。
この条約により、日本は主権を回復した。条約では日本の領土が決められた。朝鮮の独立、台湾・千島・南樺太の放棄を日本は承認した。沖縄、奄美、小笠原諸島についてはアメリカが統治を続けることになった。
国内ではソ連ぬきの条約を批判する動き(共産党・社会党・知識人など)があったが,世論は吉田の決断を評価し主権回復を祝った。
同日、サンフランシスコ郊外の米軍基地で日米安保条約が結ばれた。

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日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
                 (1951年4月8日署名、1952年4月28日公布)
前文
日本に独自の防衛力が充分に構築されていないことを認識し、また国連憲章が各国に自衛権を認めていることを認識し、その上で無責任な軍国主義への防衛のために、日本はアメリカ軍が日本国内に駐留することを希望している。また、アメリカ合衆国は日本が独自の防衛力を向上させることを期待している。平和条約の効力発行と同時にこの条約も効力を発効する。

第一条(アメリカ軍駐留権)
日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほか、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることができる。

第二条(第三国軍隊への協力の禁止)
アメリカ合衆国の同意を得ない、第三国軍隊の駐留・配備・基地提供・通過などの禁止。

第三条(細目決定)
細目決定は両国間の行政協定による。(刑事裁判権・共同防衛のための協議・分担金など)

第四条(条約の失効)
国際連合の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効する。

第五条(批准) 批准後に効力が発効する。
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■こうして安保条約は明白な不平等条約となった。基地を貸すから安全保障をたのむという関係があからさまになった。
日本は非武装なのだから、対等な集団的自衛関係にはなれないのが道理ではある。
また、アメリカの日本防衛義務が明確でないという意味でも不完全な条約だった。

■しかし、一方で日本は防衛力を向上させる約束をして、やがて努力が実れば対等条約になり、米軍基地も縮小または撤退への道も開かれている。名実ともに再軍備して防衛力を向上させることが日本政府の明白な課題になった。

■また、アメリカからも憲法改正と再軍備の要求が繰り返された。その結果、軍備増強が対米従属と批判され、防衛力抑
制が対米自主と評価されるというねじれが生じた。

5 授業のまとめ

■1954年、第5次吉田政権で自衛隊法が成立し、実質的な国防組織である自衛隊が発足した。吉田茂の8年にわたる長期政権の最後の年だった。が、自衛隊はまだ軍隊としての完璧な法律的な条件を与えられていない。
┌──────────────────────────────────────┐
│  「自衛権」とは、何を守ることでしょうか? 
│  (  )にあてはまる語句を書きましょう
│ 
  自衛隊法(自衛隊の任務)
│  第三条  自衛隊は、我が国の平和と(     )を守り、国の安全を保つため、
│ 直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、
│ 公共の秩序の維持に当たるものとする。
└──────────────────────────────────────┘
■正解は「独立」である。
「不平等条約」といえば、幕末の日米友好通商条約を思い出す。
幕末の武士たちは、わが国の植民地化を避けるために、幕府を倒し近代国家建設を進めた。
明治国家の大目標は、不平等条約を結ばされていた「半独立国家」、列強と対等につきあえる国家「独立国」するために懸命な努力をした。
汗を流し、血を流した。そして、殖産興業につとめ、立憲っせいじを確立し、日清戦争・日露戦争に勝利した後、ようやくその目標を達成した。
領事裁判権を廃止し、治外法権を回復して、日本は西洋と対等な一等国になったのであった。
つまりわが先人たちは、わが日本国の「独立」を守るために、歯を食いしばって努力し、団結して戦ったのである。

■幕末の志士たちが、日米安全保障条約を見れば、おそらく「不平等条約」だとというであろう。
講和条約後も日本は「半独立国家」だと。
もし、講和後もわが国の国家主権が完全に回復されていないのだとしたら・・・。

■吉田茂の後、内閣は鳩山一郎・岸信介・池田勇人・佐藤栄作へと自由民主党でリレーされていく。
再軍備はどうなったのか。憲法改正はどうなったのか。米軍駐留はどうなったのか。日米安全保障条約はどうなったのか?
それが次の問題になる。(授業終了)

[補説]その後のわが国の安全保障政策

■日米安全保障条約はある意味で、幕末の不平等条約よりもみじめな条約だった。講和条約で得た「独立」は形式的なものにすぎなかった。
わが国が実質においても独立して世界の一等国に戻るための課題は次の通りである。
1 国連の集団安全保障体制への加入
2 国際法・国内法ともに軍隊と呼べる実力を持つ。
3 日米安保条約を対等な軍事条約にする。
4 GHQ憲法を変える。
5 米運の駐留をNATOなみの限定的なものにする。

■自主防衛への努力(鳩山内閣~岸内閣~池田内閣まで)
・内閣法制局長官:林修三(1954~1964)

[鳩山政権]
自衛隊合憲論・・・憲法9条が放棄した「戦争」とは不戦条約・国連憲章の禁止する「戦争」である。自衛隊は、自衛のための実力であり、憲法はこれを禁止するものではない。
郷土防衛隊構想・・・民間防衛組織(消防団や青年団をベースにした民兵組織)

[岸政権]
 集団的自衛権は制限付き合憲・・・日本独力では自衛できない。集団自衛は日本を守るために必要である。
PKF派遣は合憲・・・・国連の制裁活動への参加は、憲法が認めている自衛行動にも、禁じている「国際紛争解決のための武力行使・威嚇」にも属さない第三のカテゴリーであり認められる。(林1961)
安保条約改定・・・事前協議、防衛の義務明記。基地を貸して米軍を抑止力にするという条約の本質は変わらなかった。→米軍駐留の永続化

[池田政権]
 反共路線の明確化・・・私は中立主義は取らない。共産主義と戦うのが我が党の方針である。日本の平和と安全を脅かす国際共産主義勢力の活動には対処する準備を進めなければならない。(池田1964)
自衛隊の地位向上・・・「自衛隊礼式に関する訓令」など

■一国平和主義の定着(佐藤栄作内閣~現在)
・佐藤政権の内閣法制局長官:高辻正巳(1964~1972)
  ①憲法の制約の下に国防を放棄した。
  ②国連への軍事協力を完全に否定した
  ③自衛隊が「軍隊」ではなくなった。
  ④林修三の憲法解釈をすべて否定した。


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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