中学2年「日清戦争」の授業



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《授業の意図》
弱肉強食の帝国主義の時代に立憲体制を確立した日本は、恐ろしい列強(とりわけロシア)の侵略から国民の自由と安全を守るという大きな課題に直面した。戦略的要地(利益線)である李氏朝鮮がこのまま清の属国であれば、いずれはロシアにのみ込まれ、そうなればわが国の運命は風前の灯火である。危機に直面した先人がどのような戦略を持って朝鮮の独立をめざし、大国清を打ち破って朝鮮を独立させたかを、感動を持って理解させたい。

1 帝国主義の時代
 憲法と議会を実現して、名実共に近代立憲国家となった日本の前にあったのは、策略と軍事力で領土を広げ、植民地を広げていく西洋列強の帝国主義でした。
 世界のルールは軍事的な強者がつくり、それに無理矢理世界を従わせ、ルールでは都合が悪くなるとこんどは力で押しつぶすという、いわばやくざかチンピラの世界でした。
 そんな連中と対等につきあうためにはどうしたらいいか?
 日本は地球の裏側まで出かけていって植民地をつくろうなどという自分勝手な国はめざしませんでした。
 祖国日本を守ることだけを考えていました。
 当時の世界は「イギリスVSロシア」の2大国の対立を軸にまわっていました。ロシアは冬でも凍らない軍港を持ちたいと南下します。地中海に出ようとしてイギリスに邪魔され、こんどは極東をめざしました。ロシアのねらいは満洲そして朝鮮でした。
 今日からしばらくテーマは「恐ろしいロシアから日本を守るにはどうしたらいいか?」です。

2 国の独立を守るために
帝国議会での山県有朋首相の演説(1890年)から入ります。
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山県有朋首相の演説(明治23年)

 わが国の予算の中で最大の出費は、陸海軍の費用です。
 そもそも国の独立と安全を守るには二つの道があります。
 一つは国の主権線を守ること。主権線とは領土の境界(国境)を守ることです。
 二つは国の利益線を守ること。利益線とは国の主権線の安全または危険に密接に関係している地域を守ることです。
 さて、この利益線を考えない国はありません。
 とりわけ、西洋列強の進出するアジアにあって、わが国の独立を守るためには、ただ主権線を守るだけでは不十分なのです。
 利益線を守らなければ、日本の安全はありません。
 そのためにも、この予算案にあるように巨大な金額を陸海軍の費用にあてなくてはならにのです。

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東アジア地図を示して、次のように問いました。

「山県有朋の言う、明治日本の主権線(国境)は、左の図の通りです。では、利益線(国の安全にとって最も重要なところ)とは具体的にどこのことだと思いますか? 」
A 樺太
B 朝鮮半島
C 台湾

生徒は、樺太(10名)、朝鮮半島(28名)になりました。
ともに「ロシアがそこを通って攻めてくるかもしれない」という意見でした。
朝鮮半島派は、元寇を持ち出しました。
山県有朋は朝鮮半島を利益線としていました。

しかし、朝鮮は李朝の独裁支配が続きまったく世界の現状を理解できません。さらに困ったことに、李氏朝鮮は古代からのしきたりに従って、清の属国(華夷秩序・中華冊封体制)のままでした。
まさにロシアの思うつぼという状況でした。

日本と清の思惑を図示し説明します。

《日本》・・・朝鮮を清から独立させ、日本の援助で近代化を進め、協力して朝鮮がロシアに支配されるのを防ぎたい。

《清》・・・・・朝鮮を属国のままにして、東アジアの親分という立場を守りたい。(ベトナムはフランスに取られた)

3 対立から戦争へ

朝鮮の支配階級は自分たちの特権にしがみつき、変わろうとしません。それどころか明治日本を「西洋のまねをするサル」とバカにしていたことは前に取り上げました。
しかし、朝鮮の中にも「いつまでも古い身分差別の国のままではダメだ。王や支配者たちは中国を後ろ盾にして国を支配しているが、われわれも明治維新にならって李朝を倒し、日本を見習って近代化しよう」という勢力が出てきます。
王自身や支配階級の中からも、真の愛国者=近代化派=日本派が現れます。
金玉均などです。
福沢諭吉を始め朝鮮を心配していた人たちが彼らを応援しました。
金玉均

こうして朝鮮をめぐって、清と日本の対立が激しくなっていきました。
やがて武力衝突も起きます。

1882(明治15)年  壬午事変・・・日本派の韓国王が倒され、日本公使館が焼かれ、日本人将校が殺された。
1884(明治17)年  甲申事変・・・真からの独立をとなえる金玉均ら改革派が立ち上がったが、朝鮮にい                                た清の軍隊に敗れて失敗した。

2回とも日本の意志がつぶされた事件だった。
福沢諭吉は言った。
「今後10年間、清との戦争に備えて軍備を増強しよう。」
こうして、その後10年間わが国は貧しい財政の中から軍事費をふりしぼって、帝国海軍の戦艦を増やしていった。

4 そして10年たった

10年後の1894(明治27)年、日本の海軍は総排水量6万トンになった。清は8.5万トン。戦艦の数ではほぼ追いついた。総兵力は、清が35万人、日本が12万人。
みなさんが当時のリーダーだったらどちらを選びますか?と問います。

A 戦いを避けて話し合いで進めよう(伊藤博文らの意見)
B 清と戦おう(陸奥宗光らの意見)

生徒の意見は・・・A(7名)、B(21名)だった。

1894年 甲午農民戦争・・・地方の代官の悪政に農民が反乱を起こした。朝鮮王は清の軍隊に自国の農民の鎮圧を頼んだ。日本はこれに対抗して出兵。清と日本が激突することになった。

1894(明治27)年  日清戦争
戦争が始まったとき、世界は日本が負けるとみていた。清は「眠れる獅子」だったからだ。
しかし、開戦たちまち日本の圧倒的な勝利だった。
清が和を乞うてきたのだ。

勝因は何だったか。
それは国家の違いである。
清は皇帝の国だった。人民は皇帝の私物である。軍隊は傭兵だ。傭兵にとって清とは祖国とは言えない。
また清国海軍の戦艦はイギリス人が動かしていた。中国人は乗っているだけだった。
日本は国民の国(=天皇の国)だった。兵にとってこれは祖国を守る戦いだった。
帝国陸海軍の志気は圧倒的だった。世界水準で訓練の行き届いた規律ある軍であった。
国民の愛国心も圧倒的だった。明治天皇の下に一致団結していた。

翌1895(明治28)年、下関講和会議が開かれた。
日本側は、伊藤博文、陸奥宗光。清国側は伊藤とも親交のあった李鴻章である。

話し合いの上で決着した下関講和条約の骨子は以下の通り。

・ 朝鮮の清からの独立(これが第一条だ)
・ 領土を得た(遼東半島・台湾)
・ 賠償金を得た(3億円)・・・これは日本の財政の3年分。八幡製鉄を建て日本の重工業が始まった。

めでたしめでたし。

心にかかっている感想文を一つだけ紹介する。
*どんなに人を殺すのが良くないか小さいときから聞かされていた私にとって、日清戦争は考えられませんでした。
でも、戦争の本当のその当時のことがわかって、その当時の人はどんな気持ちだったでしょうかと考えるようになりました。もっと、当時のご先祖様たちの心によりそって物事を考えることが大事だと思いました。

みなさんはどう思われただろうか。


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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