1 生麦事件
*前回、長州藩の攘夷戦争を学習しましたが、同じ時期の薩摩藩です。
薩摩は「公武合体運動」を推進していました。朝廷と幕府を合体させる。具体的には孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の結婚です。
そして幕政を改革して(外様の雄藩の力も導入して)この日本の危機を乗り切ろうという考えです。
つまり、長州藩とは違って、薩摩藩はこの時期徳川幕府の存続を支持していました。
とうよりも、文久4年までは、幕府・会津と組んで長州をつぶそうとしています。
*その薩摩藩の島津義久が軍を率いて江戸に向かいました。朝廷の意志を背景に幕政改革の実を挙げることがねらいでしたが、当時の攘夷派はこれを「倒幕か?」「攘夷の実行か?」などと誤解していたところがありました。
*その誤解が、まるで正解だったかのようになる事件が起き、こんときの薩摩の行動が過激な攘夷運動の先駆けになってしまいます。
『いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を結んで5年後のことです。
この写真の場所である大事件が起きました。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区生麦にあたります。
どんな事件が起きたでしょう?』
・生麦事件
■文久2(1862)年8月21日の生麦事件の事実経過を物語ります。島津義久の大名行列が江戸を出発して東海道を京に上っていく。向こうから馬が4頭やってくる。乗っていたのは開港した横浜に住んでいたイギリス人の貿易商とその友人。そして彼らを訪ねて母国からやってきた友人夫婦の4人。ピクニックの途中だった。4人は薩摩の武士の制止も聞かずにどんどん行列の中に入ってきて、あれよあれよという間に殿様のかご近くまで来てしまった。護衛の藩士はんちもなみちのな抜刀してイギリス人に斬りつけた。一人は即死で落馬した。二人は深手だったが、かろうじて持ちこたえて逃げた。4人目の女性は斬らなかった。3人は横浜に逃げ帰った。(4人の英国人、1人死亡、2人負傷)。
■イギリス領事は香港にいた東洋艦隊を江戸湾に呼び寄せ臨戦態勢を取った。そして、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。千両箱を280箱である。
薩摩藩には斬りつけた武士の引き渡し(処刑する)と賠償金2万5000ポンドを要求した。
■幕府は言われるままに支払った。薩摩藩は次の宿場でどうするか話し合った。
『みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか?』
A:要求に従う。
B:賠償金は払うが、斬った武士は渡さない。
C:要求に従わない。
*立場を決めさせ理由をノートに書かせる。
*人数分布をとり、数名に意見を言わせる。
【生徒の意見】
A(6名)
・世界のトップイギリスに逆らってしまうと、いくら日本の雄藩薩摩でも軍事力が圧倒的に違う。断ったら仕返しが来そう。よって、ここはおとなしくきいておいたほうがよいと思います。
・両方断ったら確実に戦争になってしまうのでダメだ。Bかと迷ったが、班員である仲間を渡さず戦争になれば、その何倍何十倍の犠牲者が出てしまう。犠牲がしょうがないというわけではないが、Aが確実に戦争を避ける方法だと思う。
B(13名)
・両方言うことを聞くとイギリスにスキを見せることになる。両方断ると完敗して日本が滅ぼされることになる。金は払うが、やむなく斬ってしまっただけだから、犯人は渡さない。
・お金はきちんと払い相手への敬意をしめす。でも仲間を見殺しには出来ないから引き渡さない。犯人は日本の法律で裁いたと伝える。日本で起きた事件だから。無罪になると思う。
C(8名)
・なぜなら、幕府がもう10万ポンド払っている。謝罪もしている。だからこれ以上賠償金は払わないで良い。犯人といっているが、英人が行列に入ってきて殿様の駕籠の近くまで来たから、殿様を守るために斬った。間違ったことはしていないから罪人呼ばわりされる必要はない。
・行列の中に入って、日本の要人の近くに来て止まりもしないので、藩主の命を守るためにやむなく斬った。忠告したし制止もしたのに、止まらなかったではないか。犯人を引き渡すのは条約とはちがう(日本人は日本の法で裁く)。郷に入れば郷に従えだ。
・仲間を裏切るようなことをする人が、みんなをまとめて明治の日本をきちんとつくれるとは思はない。ずっとイギリスなど外国の言うことを聞いていたら、日本なのに日本じゃなくなってしまうから。
■大久保利通の写真を貼り、その決断が【C】だったことを教える。
*資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読む。
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大名行列について、わが国法はきびしい。
無礼な行為があれば、切り捨てるべきであると定めている。
だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。
彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。
逆に、イギリス人が 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。
西洋人といえども日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。
その法は幕府が決めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うことこそまちがっているのである。
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*「考え方はいいと思うが、戦争になってやられることは考えなかったのか?」という質問が出る。
薩摩藩は戦争を覚悟して薩摩に帰りました。世界の超大国だから大砲戦は負けると城下が焼かれることは覚悟していたようだ。しかし、いくら強いといっても海軍だけでは上陸され占領されることはないと見ていた。戦争の勝ち負けよりも、ここはサムライとしての筋を通すことが後々のためにも重要だと考えたのでしょう。
2 薩英戦争
■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。
■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その薩摩藩が、幕府の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。
■お話をプリントして配り、読む。
薩英戦争(さつえいせんそう) 文久3年(7/2) 1863年(8/15)
世界の海を支配するイギリス艦隊は、世界最強の海軍であった。軍艦7せき、大砲の数は全部で89門だった。薩摩の蒸気船は3せきともイギリス艦隊にとらえられてしまった。
大久保利通は、公武合体派で長州と対立する薩摩が攘夷戦争をやることになった運命の不思議を思った。しかも敵は世界最強の海軍であり、こちらは日本の九州の南端の一つの藩に過ぎないのだ。しかし、もはやしりぞくわけにはいかなかった。
城下の人々を避難させ、沿岸の十数カ所につくった砲台の準備も整った。
7月2日。おりから、台風が近づき、暴風雨の中で戦争が始まった。
薩摩藩の大砲は旧式だったが、ふだんからの訓練がものをいって、命中率が高かった。その一発はみごと敵の旗艦(指揮官の乗っている船)に命中して、イギリス軍艦の艦長と副艦長が戦死した。
しかし、薩摩藩の砲台はつぎつぎと集中砲火を浴びた。イギリスの大砲は、最新式のアームストロング砲だった。鹿児島の城下町は炎につつまれ、砲台も次々と攻撃力を失っていった。
戦争は3日間続き、指揮官を失ったイギリス艦隊は、鹿児島から出ていった。
結果はこうだった。
イギリス軍の戦死13名、負傷者50名。
薩摩軍の戦死10名、負傷者11名。
鹿児島城下の五百戸が焼かれ、蒸気船3せきを失い、薩摩藩の西洋式の工場もこわれてしまった。
どちらが勝ち、どちらが負けたのか、わからない戦争だったが、大久保たち薩摩藩のサムライたちは、この戦争で西洋の真の実力を体験できたのである。
イギリスの新聞は次のように書いた。
「鹿児島は戦争のうまさは日本第一である。 薩摩藩の兵士の勇かんさは、これまで見たアジア人の中で、ぬきんでている。すみやかにもう一度攻撃しなければ、英国のはじとなろう。二人の指揮官を失ったことは大英帝国のはじだからだ。しかし再び攻撃するには、軍艦十二せき、千名の陸軍がいる。準備には八ヶ月が必要だが、その間に、薩摩もじゅうぶんに用意しているだろう」
3 戦争の後
『戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。
A:早く解決しよう派 B:あくまで戦う派
戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう?』
*挙手で意見分布をとるだけにして、すぐに正解を教え、授業のまとめをする。
【正解はA】
■武士としての意地を見せたことに満足し、イギリスと講和することにした。
大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。
しかし、賠償金ではなく遺族養育料という名目にさせた。
しかも、それを幕府に払わせた。
■そのとき大久保が使った手を教えよう。しぶる老中にこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って自分も切腹する」。
幕府の老中はふるえあがって金を出したという。
■長州藩と薩摩藩だけが西洋列強と戦争をした。両方とも、彼らの実力を身をもって知った。そして、真の尊王攘夷というのは「天皇中心にまとまる組を作り、日本を実力を蓄えて、西洋列強に支配されない強い国を作ることだ」という、前時の高杉晋作の方針で固まっていく。
■では、イギリス側はどうだったか。彼らは、戦った薩長を憎まなかった。それどころか、正々堂々と戦う誇り高い武士の精神(長州藩と薩摩藩)を尊敬し、幕府よりも薩摩と長州を応援するようになった(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。
■そのほうがイギリスの利益になると考えたからだ。
これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えたのである。
イギリスの幕府離れは、競争相手のフランスが幕府の応援を始めたことも原因だった。
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