1 高杉晋作の紹介
*かんたんに以下を説明します。
1839年、長州藩の萩に生まれる。
黒船来航は15歳。19歳で松下村塾に入る。
21歳で、松陰が死刑になる。亡骸を世田谷の毛利別邸に運んで弔い墓を建立、明治になって松蔭神社が祀られた。
22歳で結婚(新婦まさは防長一の美人といわれた女性)
2 上海行きと攘夷運動
*高杉晋作の行動を危ぶんだ長州藩は、幕府の派遣船に乗せて、上海に見聞に行かせた(文久2年)。
*資料「高杉晋作の見た清国」を配る。
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高杉晋作の見た清国
高杉晋作は23歳のときに、長州藩の命令で、清国に行きました。
日本より前に、アヘン戦争によって開国させられた清国の様子を見るためです。
上海(シャンハイ)につくと、晋作はおどろきました。
清国に来たはずなのにそこはまるで西洋の国のようだったからです。
たくさんの西洋の船や軍艦が港をふさいぐようにとまっています。
港町には西洋風の建物がならび、屋根には西洋の国旗をなびかせています。
さらに町の中を歩いてみるともっと驚くことが見られました。
お金をはらわなければ通れない有料の橋があり、しかも、お金をはらっているのは清国人だけで、西洋人はただで通れるのです。
アジア第一の大国である清国が、西洋の国に支配されたような国になってしまっていたのです。
晋作は、日記にこう書いています。
「中国人はまるで西洋人のめしつかいのようだ。
イギリス人やフランス人が道を歩いてくると、中国人ははじに寄って彼らに道をゆずっている。
上海は中国の領土だが、これではイギリスやフランスの植民地になってしまったのと同じことだ。」
こうして、晋作は日本の危機の本当の意味がわかったのです。
清国のひさんな現実を見た晋作はこう考えました。
「世界は弱肉強食の時代になっている。
西洋は軍事力にものをいわせて、アジアを支配している。
まちがったつきあい方をすると西洋人の思うがままにされてしまうのだ。
西洋のめしつかいのような清国のひさんな姿は、明日の日本の姿になりかねない。
このままではいけない!」
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*この上海行きは高杉に大きな影響を与えました。
帰国した高杉を迎えた長州藩は、尊王攘夷派が実権を握っていました。
高杉もこの大きな流れの先頭に立って、弟分の伊藤俊輔(博文)らと外国公使暗殺計画(未遂)や第一次東禅寺事件(品川御殿山に新築中だったイギリス公使館焼き討ち)などを行いました。
3 攘夷決行と草莽崛起
*将軍家茂は朝廷に通商条約の勅許をを求めるが、逆に「文久3年5月10日をもって攘夷を実行する」という約束をさせられてします。
*幕府は攘夷令を発布するが、外国公使らには「実行の意志はない」ことを伝えた。諸藩も幕府が本気ではないことを理解していた。
*しかし、藩として尊王攘夷を実行しようとしていた長州藩だけは違った。5月10日(1863年6月24日)、下関を通過する各国商船に砲撃を加えた(下関戦争)。
*翌月、アメリカやフランスに相次いで報復攻撃を受け、フランス軍は上陸して砲台を破壊した。
『このとき、高杉晋作は藩主に提案して日本はつん軍隊を作りました。』
*奇兵隊・・・日本初の西洋式軍隊・志願制で身分は問わない。
*これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるも のです。 「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。
*翌文久4年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を一斉攻撃(馬関戦争)し、長州藩は大敗北を喫した。高杉晋作は講和会議の藩代表にかり出され、伊藤俊輔が通訳を務めた。賠償金300万ドルは「幕府の攘夷令に従ったまでだ」とつっぱね、結局幕府に払わせた。また、彦島租借要求には、イザナキ・イザナミから延々と神話を語り続けて断ったというエピソードは有名。英国の通訳アーネスト・サトウに「魔王のようだった」と言わしめたタフなネゴシエーターだった。
4 長州征伐と功山寺決起
*文久4年は長州とってさんざんな年になった。
7月:禁門の変に敗れ、朝敵とされた。
8月:馬関戦争に敗北
11月:第一次長州征伐、幕府と薩摩の連合軍に攻め入られ、参謀西郷隆盛の妥協案に戦わずして恭順し、「今後は幕府にすべて従いますのでお許しください」という俗論派が長州藩を牛耳ることになった。
12月、24歳の高杉晋作は大きな岐路に立たされた。
*高杉は、藩政を覆すべく奇兵隊や諸隊に挙兵を呼びかけ、下関の功山寺に結集するようにふれを回しました。
しかし、集まってきたの弟分伊藤俊輔の指揮する力士隊ともう一隊だけ。総勢80名に過ぎません。
長州藩兵3000名と戦うにはあまりにも少なすぎました。
山県有朋をふくめ、ほとんどの隊長たちは無理だと判断したのです。
『彼の心には、師吉田松陰の遺言となった次の手紙がよみがえっていたのだと思います。』
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吉田松陰の手紙
高杉晋作君
かつて君は私に質問した。
「男子の死ぬべき所はどこか」と。
私も昨年の冬、投獄されて以来、考え続けてきた。
死は好むべきものではないが、また憎むべきものでもない。
世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。
反対に、身はほろびても、たましいは生き続けている人もいる。
死んで、不朽(ふきゅう:永遠にほろびない)のことが残せるみこみがあれば、いつ死んでもよい。
また、生きて大業(たいぎょう:大きな仕事)をなしとげるみこみがあれば、
どこまでも生きる努力を続けなくてはいけない。
人間というものは、生死のことなど度外視(どがいし)(考えに入れないこと)して、いまじぶんがやるべきことをやるという心がまえが大切なのだ。
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*高杉はこれこそが「不朽の大業」だと決断し、たった80名の先頭に立って萩に向かって進軍しました。
伊藤博文は「これはいかにも危ないが、高杉さんについていこう」と思ったそうです。
しかし、たくさんの声なき声が高杉の決起を知って駆けつけてきて、萩を攻撃するときには1000名の軍にふくれあがっていました。それでも3:1ですが、圧倒的な志の差が大逆転劇を生み出します。
功山寺の挙兵は成功し、高杉晋作らが長州の藩政を握ることになったのです。
まさに、功山寺決起こそ維新回天の偉業と言っていいでしょう。
ここで長州藩がひっくり返らなければ、薩長同盟もなく、3年後の明治元年はあり得ない話でした。
5 国づくりの大方針と高杉晋作の死
*西洋列強の圧倒的な軍事力を体験した高杉晋作率いる長州藩は、それ以前から練ってきた「国づくりの大方針」をこのあたりで確立したと思われます。最後にそれを考えましょう。
『次の、(A)(B)(C)に当てはまる言葉を書きなさい。』
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国づくりの大方針
1 日本を( A )と対等につきあうことのできる、強い国にする。
2 ( B )を倒し、( C )中心に一つにまとまる国をつくる。
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*意見を発表させて、評価する。
Aは「西洋」「欧米」などが正解だが、ここで「西洋(欧米)列強」という用語を身につける。
Bは「幕府」、Cは「天皇」でほとんどが正解する。
国づくりの大方針
1 日本を西洋列強と対等につきあうことのできる、強い国にする。
2 幕府を倒し、天皇中心に一つにまとまる国をつくる。
*この大方針は、やがて維新の志士たちが共有する目標に、また明治の国づくりを貫通する目標になるので、しっかり覚えさせるようにする。
*2については、「天皇中心の中央集権国家」であり、それは古代の日本に戻すことだと意識されていた。だから、維新(これ新たなり)がすなわち、「王政復古」になっていく。
*慶応2年 第二次長州征伐(四境戦争)には薩摩が加わらず、将軍家茂が死去し、幕府は長州をつぶすことはできなかった。
*やがて、長州と薩摩という二大雄藩(ひたすら憎み合ってきた)が連合し、幕末の動乱は一気に動き出すことになった。
*しかし、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、大政奉還のちょうど半年前に、高杉晋作は労咳(肺結核)で死去した。享年(満)27歳。
*辞世の句は
おもしろきこともなき世をおもしろく
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