【授業のねらい】
・吉田松陰の思いと行動を知り、維新の志士とは何か、尊王と攘夷の意義などについて理解を深める。
1 吉田松陰登場
*肖像を見せ、以下を説明する。
・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・11歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授になる。
・23歳、江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。
2 藩の政策に反論
『黒船が来たとき、長州藩では「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には責任がないことだ」という意見がほとんどでした。松陰はこの意見に強く反対した人です。どんな反論をしたのでしょう?』
*松蔭の反論はこうでした。
「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。日本のすべての武士が力を合わせて外国に立ち向かうべきである。いまこそ、みなが日本国に忠義をつくすべき時である」
『当時「わが国」といえば自分の藩のことでした。250年もの泰平の世をまったく外国を意識しないできた多くの武士にとって、自分が忠義をつくすべき国とは自分の藩であり、その殿様のことでした。
全国に藩は300もありました。
だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、日本の武士ならばだれもが日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。
このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。
明治維新ために働いた武士ですから、維新の志士ですね』→板書
*ここで、武士道の授業を振り返らせ、藩の殿様への忠義とは、殿様個人につくすことではなく、藩(国)という共同体、ひいてはその大多数を占める農民(大御宝)への忠義を含むものだったことにふれる。
この「志士」の武士道とは、日本という国家への忠義ということになる。そうすると、忠義の具体的対象はもはや殿様でも将軍でもなく、天皇だということになる。
これが幕末の武士を動かした「尊王精神」であり、武士道の原理からすればそれは、日本という共同体への忠義であり、ひいてはその大多数である農民(国民)への忠義を含むものでした。
ここで
『志士は、藩の殿様ではなく、だれに忠義を尽くすのが日本のために尽くすことになるのですか?』
と問えば、
生徒全員が「天皇です」と答えられなければならないと思う。
これまで何を教えてきたのかということになる。
*嘉永から安政に移る頃には、各藩の武士も幕臣も、この「尊王」が強弱の差はあっても、共通の精神になっていく。あの井伊直弼でさえ、自分は尊王精神を持っている自信を持っていたのです。
3 黒船に行ったわけ
『翌年、2度目にペリーの黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきました。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう? 』
A:暗殺する B:説得 C:密航
『正解はCです。日本とアメリカの軍事力の差はどうしようもないくらい差がある。だから、自らアメリカに行って敵のすべてを研究し、その知識を日本に持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。それが松蔭の考えでした。』
『失敗した松陰は、その足で役人のところに行き、これこれしかじか、国法を破ろうとしたが失敗したといさぎよく自首しました。死罪を免れないかもしれないことは百も承知でしたが、そこが松蔭の恐ろしいまでに正直なところです。松蔭の世間の常識でははかれない行動を「狂」と評する人もいます。結局、松蔭は牢屋に入れられました。そのときつくった和歌を教えます』
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
*大意を教え、生徒達と大きな声で朗誦します。
4 野山獄の変化
江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の野山獄という牢屋に入りました。松陰が入ると、牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでが始まったのでしょうか。
A:勉強 B:勤労 C:遊び
『正解はAです。生きる希望を失って病人か亡霊のようになっていた罪人たちに、道徳や学問、いま日本が迎えている危機と日本人ならどうすべきか等々を教え、やがて共に日本のために尽くすときが来ると説きました。また、彼ら自身にも得意なこと(習字、俳句など)の先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまったそうです。生まれながらの熱血教育者なのです。』
5 松下村塾
『やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではなく、家の外には出られず、どこへも行けません。そこで、家の離れで松下村塾という塾を始めました。そして、藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生にし、月謝も取りませんでした。』
『松陰はこの塾で自分のことを「A」とよばせ、塾生のことを「B」とよばせました。AとBに言葉を入れなさい』
【A=「ぼく」 B=「きみ」】
『武士の塾生は「拙者」「それがし」「貴殿」、農民の塾生は「おら」「おまえ」「あなたさま」などと話します。これでは松蔭の理想はかないません。そこで、塾生は皆「ぼく」「きみ」と呼び合うようにさせたそうです。志士として身分差のない言い方は塾生のあいだにすぐに広まり、やがて全国の志士に使われ、いまも続いていまも使われています』
『この松下村塾から、日本の新しい国づくりを進めた維新の志士たちがたくさん育ちました。』
*高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、井上馨などを教える。
5 通商条約
『松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められてました。松蔭は、攘夷決行を求める朝廷に
次のような意見書を出しました』
「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方でとうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもっているのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋と対等につき合える国にするべきだ」
『では、松陰は幕府が独断で締結した修好通商条約(開国)に、どんな意見を持ったでしょうか?』
A:賛成 B:反対
【正解はC】
「この条約では、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからでなければならない。強いものにへつらい、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」
*条約締結前の考えと矛盾するようですが、西洋と対等につきあえる日本にならなければならないという考えが吉田松陰の攘夷論でした。
『こうして、長州藩は幕府が天皇の許しを得ずに結んだこの条約に反対するという大方針に立って動き始めます。』
6 吉田松陰の辞世
『吉田松陰は、老中暗殺計画を立てたという罪で、幕府によって死刑にされました(安政の大獄)。1867年、江戸時代が終わる1年前のことでした。享年29歳。あまりにも若すぎる!』
*辞世を教え、みんなで朗唱して授業を終えます。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
【生徒の感想文】
●吉田松陰がとても好きになりました。正直さ、日本を思う心に感動しました。正直な人でありたいと思いました。
●やはり日本の歴史を動かすような人は、普通の人とどこか違っていると思いました。日本全体のことを考えることが大事だと思いました。
●正直で少し狂っている人物だけど、そういう人は何かしらの才能を持っていると思いました。何事も自分らしく、本当に思ったことを実行し続ける意味を教わりました。大和魂を受け継いで!!
●吉田松陰は他の武士と違いおても日本という国に忠義を持っていることがわかりました。また、大和魂を貫くことをすごいと思いました。
●歴史上に名を残す人物は大和魂があった人だと思った。吉田松陰は頭も良くて自分に正直だから、真面目な人だと思う。生き方について教わった気がします。
●吉田松陰は、自分の意志を強く持ってぶつけていき、実行することが出来る素晴らしい人だと思いました。
●吉田松陰を尊敬しました。今までは阿倍仲麻呂が一番でしたが、今日、吉田松陰に変わりました! 松陰の生き方や和歌に感動しました。私も松下村塾に通いたいです。
●吉田松陰は自分の国のことだけでなく、日本全体のことを考えられる、常識などにとらわれないすごい人だった。密航のことを自首したなんて驚きました。
●正直に生きて失敗することもあったけど、日本のために生きる姿に感動しました。どんな立場におかれても、自分の信念を貫くことの大切さを学ぶことが出来ました。
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