1 ペリーは日本をどう見たか
『新しい歴史教科書』(自由社)P155に、ペリーの『日本遠征日記』の抜粋が載っています。これを読んで、ペリーもなかなか見る目があったことを確認する。
2 領事ハリスと日米通商航海条約
安政3年(1856年)に、ハリスが下田に開設されたアメリカ領事館に着任しました。
ハリスはしばしば江戸城に出向いて通商条約の締結を要求し続けました。
このときの将軍は13代徳川家定。老中首座は堀田正睦でした。
孝明天皇は攘夷論者で、どうしても朝廷の勅許は得られません。
国内は、開国(条約)派と攘夷派に分裂して喧々がくがくの争いが巻き起こり、幕府や各藩の内部でも対立が起きました。
この決められない混乱状況に決着を付けるべく登場してきたのが、彦根藩主の井伊直弼でした。
安政5年(1858年)、非常時の臨時職だった大老職を設けて、これに井伊直弼が就任します。
大老は老中首座とは異なり、強い決定権を持ちました。
井伊直弼は、朝廷の許しが得られないまま、通商条約の締結を決断します。
朝廷から国政を委任されている幕府には、その責任と権限があるという判断です。
尊王攘夷運動といいますから、井伊直弼ら開国派は「尊王」ではないと思うかも知れませんが、そんなことはありません。当時「尊王」は武士の常識になっています。
朝廷を取るか、幕府を取るかで争うような歴史は日本にはないのです。
井伊直弼は国政を預かる責任者として、それが日本を救う道であると決断したのです。
安政5年(1858年) 日米修好通商条約締結
・函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎が開港され、外国人居留地をつくり、貿易を行うことになった。(下田は閉鎖)
すると、ただちに英仏をはじめとする列強がやってきて、同内容の条約が結ばれました。
これを安政の五ヶ国条約といいます(日英・日露・日仏・日蘭)。
3 不平等条約
幕府が朝廷の許しを得ずに独断で開国条約を結んだことに攘夷派は憤激し、尊王攘夷運動の嵐が巻き起こりました。
またこの通商条約は、2つの不平等な内容があって、日本を主権国家とは認めていないことが明らかになります。
・日本に関税自主権がない
幕府は関税を自主的には決められず、相手国と協議して決めなければならない。
・相手国に領事裁判権(治外法権)がある
日本における外国人の犯罪を日本側で裁くことができない。
*関税自主権がないと、自国の産業を守れなくなることを図示するなどして説明する。
*領事がその国の法で裁くとどうなるか、具体的に説明する。
こうして、日本は西洋列強中心の国際社会に巻き込まれていきました。白人の数カ国(列強)が有色人種地域を植民地として支配し、列強同士は主権国家として対等に交際する。
日本はまだ植民地にはされていないが、列強とは不平等な国として国家主権が制限された。
手をこまねいていれば、他の有色人種地域のように植民地という境遇に落ちていってしまうかもしれない。
条約は結ばれ、名実共に開国したが、危うし日本!は変わりません。
4 開国か攘夷か
通商条約が結ばれて、開国派と攘夷派の対立がより明確になりました。
『みなさんは幕末日本の武士になりましょう。日本の未来のために考えてください。開国か攘夷か、どちらかの立場を選んで、その理由をノートに書きなさい。時間は3分です。』
A 開国派(条約を守る)
B 攘夷派(条約を破棄して攘夷を実行する)
*それぞれ数人に発表してもらいました。
【開国派】
・外国にあらがえば、植民地化し、「日本」という今までずっと守り抜いてきた国が無くなってしまうと思ったからです。無理に開国したくはないが、戦争になってたくさんの命がなくなるなら、平和的な解決策を求めないといけない。いきなり攻められてしまうかもしれない。時間をかけて力をつけていこう!!
・朝廷にいちいち許しを得ていたらその間に日本がつぶされてしまうかも知れない。このまま鎖国を続けていたら、外国からの文化も技術も入ってこないので、いい機会だから開国しよう。日本と西洋の軍事力や技術の差が激しいので、このまま鎖国を続けて、彼らを敵に回したらやられる。
【攘夷派】
・本は昔から天皇中心で政治を進めていたのに、天皇(朝廷)が許可していないのに、貿易しようという開港や条約を結んで、不平等関係になってしまった。このまま植民地にされてからでは遅い。条約のせいで国をのっとられるかもしれないから。
・アメリカに日本を侵食されるとアメリカの思うままになってしまう。関税だってアメリカの好きなようにさせたら、日本の産業がなくなってしまう。日本の文化をふまえた上で今の状態があるのだから、今の日本を発展させていくのが良いと思う。鎖国といってもオランダとのつきあいはあるのだから、このつながりを生かして、その間に国の意識を高めて強くなってから戦えばいいと思う。
・ズルズルのみこまれて行くのがA(開国)で、サムライの気持ちになったらB(攘夷)だと思ったからです。
5 弾圧と反撃
通商条約締結後から翌年(安政6年)にかけて、井伊直弼の主導する尊王攘夷派の弾圧が吹き荒れました。
罰せられた者は浪人(志士)から御三家の前藩主まで多数。
これを安政の大獄といいます。
しかし、またその翌年には井伊直弼が水戸藩の脱藩浪士や薩摩藩士によって暗殺されてしまいます。
万延元年(1860年) 桜田門外の変
江戸城の桜田門の外で白昼堂々と幕府のトップリーダーが殺害されてしまいました。やったのは尊王攘夷派で、まさに昨年まで吹き荒れた安政の大獄の報復でした。
まさに幕府の政治的な権威が地に落ちた事件でした。
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