1945(昭和20)年の2月頃になると、つまりヤルタ会談の頃ですが、日本の上層部はみなソ連こそが日本を救うのだと考えるようになっていました。それが時代の空気だったようです。
『宗像久敬日記』に次のようなやりとりが出てくるそうです。
以下は岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』の引用です。
宗像久敬(当時日本銀行)は、昭和天皇の最側近だった最後の内大臣木戸幸一(元勲木戸孝允の妹の孫です)にこう話したそうです(3月3日)。
「ソ連の仲介で和平を進めたら、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくるだろうが、これを受け入れてもよい」
「共産主義というが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が共産主義ではないか。欧州もしかり、支那もしかり。残るは米国くらいだ」
そこで宗像が、
「共産主義になると皇室はどうなるのか、国体と皇室の擁護は国民の念願である。米国と直接接触すべきだ」
というと、木戸はこう答えました。
「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るのがよい。結局皇軍はロシアの共産主義と手を握ることになるのではないか」
昭和の歴史はまだわからないことだらけですが、政治家、官僚、軍人という指導層の多くが共産主義(全体主義)にはまっていました。東大や京大の学生はみな真っ赤でした。
それが皆転向したといいますが、あの昭和の転向というのは、共産主義を棄てたわけではなく、天皇と皇室への殺意だけ棄てたわけです。
それ以外はまったく問われずに残っていたんですね。
実際にソ連とつながっていた人物がどれだけいたのか。
ルーズベルトの周囲に200人いたのですから、日本は尾崎秀実とゾルゲとあと数人ということはありえません。
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