ねずきちさんのブログから転載します。
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題名:支那事変の真実
東京近代史研究所 代表 落合道夫
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Ⅰ はじめに
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中共が東京裁判の研究を始めたという。
これはエセ南京大虐殺が東中野修道教授ら日本側歴史研究者の詳細で実証的な調査によりハッキリと否定されたので、再度日本人の頭を抑えるため支那事変の新しい反日宣伝材料を探そうとしているのはないか。
そこで我々はまず支那事変の全体像を知っておくことが必要である。
全体が分からないと史実をつまみ食いされて騙されるからだ。
従来支那事変は分かり難いとされてきた。
たしかに関係国の行動は複雑で矛盾が多い。
たとえば、九年がかりの内戦に勝利し、支那統一五分前と言われた蒋介石がなぜ統一を放棄して日本を攻撃し、その結果戦後内戦に負けて支那から追い出されたのか。
また日本がなぜ支那大陸で成算のない泥沼の戦争を続けたのか。
米国はあれほど蒋介石を援助したのに、1949年に支那全土から追い出されたのか。
これらの疑問は日本悪者論だけでは到底説明がつかない。
そこで因果関係を柱に支那事変全体を見直してみたい。
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第一章 支那事変の正体
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1 分析の五大心得
分析の五大心得、それは、
(1) 当事者意識
(2) 広い視野
(3) 高い視点
(4) 深い洞察力
(5) 新しい歴史情報の追加、である。
「当事者意識」とは、我々は日本人なのだから日本の立場に立つということである。
そうでないと外国人の歴史分析になってしまう。
「広い視野」とは、この戦争が日本と蒋介石だけでなく、米ソ独を含む多国間の戦争であったことである。
「高い視点」とは戦争をクラウゼビッツの述べたように、戦闘の結果としてではなくグローバルな国際政治として見ることである。
特に当時の指導者たちの世界戦略の理解は欠かせない。
「深い洞察」とは、これらの情報を総合することである。
ただし歴史情報には秘密協定や虚偽があるので鵜呑みにせず常に史実との照合が必要である。
「新しい歴史情報」、これはソ連崩壊後明らかになったロシアの支那事変の情報が決定的だ。
スターリンは蒋介石に軍事援助三億ドル(当時)を与えており、その内訳は総計軍事顧問四千名、飛行機一千機に上っていた。
そして重大なのはこの大顧問団をソ連本国が直接指揮し、米国や独逸の顧問団と違い蒋介石には指一本触れさせなかったことである。
これだけで支那事変がスターリンの蒋介石を使った対日代理戦争であったことが分かる。
また1945年のヤルタ会議では、蒋介石を呼ばずに米ソだけで支那利権(外蒙古の領有、帝政ロシアの権益復活など)をやり取りしている。
これは蒋介石が米ソにとって傀儡であった証拠である。
2 支那事変とは
支那事変とは、独ソ戦に備えたソ連の東部国境工作であり、満洲を狙う米国の対日戦争の前哨戦でもあった。
蒋介石は戦争指導者といっても傀儡であり、両国の莫大な援助がなければ一日も戦争を続けることはできなかった。
したがって日本と張学良だけの局地戦である満洲事変とは関係国も戦争動機も全く異なっており、いわゆる十五年戦争説は年数を含めて事実ではない。
では長年反共だった蒋介石は何時転んだのか。
それは盧溝橋事件の半年前の一九三六年十二月の西安事件である。
それではなぜスターリンは蒋介石を取りこんだのか。
それにはまず西安事件に至る支那の近代史を知る必要がある。
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第二章 支那近代史
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1 蒋介石
一九一二年清朝が滅びると領土が分裂し、満洲ではそれまでの経緯から鉄道権益を持つロシア(後ソ連)、日本と張作霖軍閥の三勢力が鼎立した。
一方支那本土は軍閥が割拠し互いに支那の覇権を争う長期の内戦に入った。
(1)軍閥とは徴税する私兵集団のことであり、いわゆる「中華民国」も蒋介石国民党軍閥の自称に過ぎなかった。
だから支那事変を「日中」戦争と云う表現は不適である。
また近代国民軍の日本軍を軍閥呼ばわりするのは、日本軍を非難する反日宣伝だから騙されてはならない。
ソ連共産党は一九二一年ロシアの政権を奪取すると支那に支那共産党(中共)を設立し、武器、資金を与え監督員を派遣してソ連の東部工作に使っていた。
そして民族主義の国民党軍閥が勢力を伸ばすと、党指導者孫文を騙して一九二四年共産党と合体させた。
第一次国共合作である。
このため士官学校の校長が蒋介石、政治部長が周恩来という後年では驚くべき組合せが起きた。
また蒋の長男経国がソ連に留学している。
しかし彼はすぐに人質となり、後年西安事件の取引に使われるのである。
2 国共内戦
一九二七年、中山艦事件が発生した。
これはソ連による軍艦中山を使った蒋介石の誘拐未遂事件と云う。
そこで蒋介石が共産党に反撃し第一次国共内戦が始まった。
この時蒋介石軍に共産党員が処刑された事件を材料にフランスの文豪アンドレ・マルローが小説「人間の条件」を書いている。
蒋介石の方針は「国内を統一してから外国と交渉する」(安内攘外)だった。
「日本は皮膚病だが中共は心臓病」と述べたように中共を最も敵視していたのである。
内戦は独逸の軍事顧問団を使う蒋介石が優勢に進め、毛沢東は辺境を逃げ回った挙句、延安に逃げ込んだ(長征)。
そこで蒋介石は一九三六年十二月総攻撃の作戦指導のために西安に赴いた。
毛沢東らはすでに飛行機でソ連に脱出する準備を了えていたという。
蒋介石は二十四年ぶりの支那統一を目前にしていたが、そこに油断が生まれたことは否めない。
2 歴史のねつ造
NHKの支那事変番組では、蒋介石が一九二八年に支那を統一したことになっており、進行中の毛沢東との重大な国共内戦は隠蔽されていた。
これは張学良が満洲に国民党の旗をたてさせた事件を支那の満洲支配の証拠にしようとするものとおもわれるが、明らかな歴史のねつ造である。
満洲はロシアが占領しており、それを日本が日露戦争で撃退したのである。
3 米国の対日敵視
米国は1860年西部開拓を了えると太平洋とアジアに向かった。
そして先行国を牽制するため支那門戸開放機会均等宣言を掲げて積極的に支那問題に介入した。
このため日露戦争ではロシアの満洲独占支配を阻止すべく講和を仲介したが、日本が米鉄道王ハリマンの南満州鉄道の買収提案を断ると一転日本敵視に変わった。
そして二十年代にはワシントン体制を主導し「支那の保護」を主張した。
支那は本来米国の安全保障とは関係がないので、列強の支那進出を妨害し、米国が支那権益を手に入れるための偽装である。
米国政府は支那が本土からあまりにも遠く直接の軍事介入は国民に理解されないので、金を使って現地軍閥を使って工作を行っている。
そこで米国は支那軍閥の国際協定侵害を黙認する一方、被害国の日本の苦情は一切受け付けなかった。
このため米国の極東専門家の元外交官マクマリーは、
「ワシントン体制を一番守ったのは日本、破壊したのは米国」と批判している。
4 マクマリーの慧眼
日本は米国ワシントンに桜を贈ったように、一貫して対米友好であり米国産業界にとっても世界第三位の上得意であったが、米国政府とマスコミは日本敵視を強める一方だった。
このため一九三五年マクマリーは国務省に、
「日本を滅ぼしてもソ連が南下する。支那軍閥は米国を利用しているだけである。だから支那満洲は米国の思い通りにはならない」と日本敵視方針を止めるように献策し、グルー米駐日大使も強く支持したが無視された(2)。
この報告書は国務省のホーンベック極東部長の机の引き出しに彼が辞任するまで放り込まれたままであった。
しかしその予想は戦後的中し、歴史家は彼の洞察力を高く評価している。
5 日本の大陸政策
日本は明治時代強大なロシア帝国の南下攻勢から自衛するために朝鮮半島の支配をめぐり存亡をかけて日清、日露戦争を戦った。
朝鮮半島は古来大陸勢力の日本侵略の跳躍台となる地政学的な要衝であり、欧米からは大陸から日本に突き付けられた短刀と呼ばれていた。
そこで日清戦争では清朝の属国から李氏朝鮮を切り離し中立独立国とした。
しかしロシアは1900年北京の義和団事件の混乱に乗じて、満洲に侵入し全土を占領した。
そして朝鮮に南下し朝鮮王をロシア大使館に幽閉し、竜岩浦に海軍基地を設けた。
危機感を高めた日本はロシアに満洲をロシア、朝鮮を日本という勢力協定を提案したが、ロシアは拒否した。
日本を狙っていたのである。
そこで日露戦争を戦い、朝鮮半島と満州南部を得て対露(ソ)防衛の緩衝地帯にしたのである。
日本が朝鮮を植民地にするため、国家の存亡をかけて大敵ロシアと戦ったわけではないことを知っておきたい。
日本は満洲では張作霖軍閥と協力して極東軍を持つ最強のソ連に対抗していたが、一九二八年張作霖が列車爆破事件で急死した。
これは河本大作大佐の自己宣伝で日本軍が行ったと誤解されていたが、欧米の研究者は日本が損する行動を取るわけがないとして、日本犯人説には否定的であった。
そこへ最近当時のチェンバレン外相あての英国特務機関の事件報告書が大英博物館で見つかり、河本ダミー、ソ連KGB主犯説が有力となった。
ソ連の狙いは敵対する張作霖への報復と張作霖を利用した米国の進入を警戒したものと言われている。
その後息子の張学良が後継者となったが、日本との協定に違反し邦人殺害を含む危険な排日攻撃を始めた。
そこで一九三一年九月在満日本軍(関東軍)は自衛のため止む無く立ち上がり、張学良軍を支那本土に駆逐した。
満洲事変である。
これに対し満洲に野心を抱く米国は一九三二年一月満洲の現状変更否認宣言を発表したが、日本は満洲国を建国した。
すると米国は国際連盟を使って白人諸国を加えた共同統治を要求した。
そこで松岡代表は日露戦争で日本が払った多数の人命と巨額の国費という大きな犠牲から断固要求を拒否し、一九三三年連盟を脱退した。
日本人はこれらの国がみなアジアに植民地を持ち現地人を搾取していた強欲な宗主国であったことを忘れてはならない。
そして日本は世界不況による欧米の貿易障壁に苦しんでいたので自給自足を目指し、満洲に大規模な工業投資を行い移民を送り、日本の生命線としてその開発に力を注いだのである。
6 日本と蒋介石
しかし支那本土に追放した張学良軍が長城地帯から満洲に侵入してくるので、日本は支那北部に非武装地帯を設けるため一九三三年蒋介石とタンクー協定を結んだ。
日本と蒋介石は、ソ連を共通の敵としていたので敵対しておらず、二年後には梅津何応欽協定で正式に国交を開設し、鉄道、通信などの交通が始まった。
なお日本は一九〇一年以来義和団議定書により米英仏伊と共に治安の失われた北京地域に国際平和部隊を駐屯させていたが、この部隊が一九三七年盧溝橋事件で攻撃されるのである。
7 独逸の支那戦略
ドイツは世界恐慌で輸出が止まり経済が崩壊した。
このため人口の一割に上る八百万人が失業し社会不安が発生した。
しかし既成政党が収拾できなかったため、一九三三年ナチス党が選挙で第一党となり、ヒトラーが首相になった。
彼は高速道路建設など公共投資を実施し、失業問題を急速に収拾した。
ヒトラーは国家経済としては自給体制を目指しており、著書「我が闘争」でソ連領土の獲得を明言していた。
このためソ連東部国境の反共勢力である蒋介石に軍事顧問団を派遣し優秀な武器を売却していたのである。
8 ソ連の対日、対蒋介石戦略
ソ連共産党の独裁者スターリンは、ヒトラーが台頭するとソ連攻撃に備えて各国でスパイ工作を開始した。
その一つが日本のゾルゲスパイ事件である。
スターリンの極東政策の狙いは一般に赤化と言われるが、実際は東西挟撃防止であり、極東では反共勢力(日本、蒋介石)の無力化であった。
そしてそれこそが蒋介石を使った対日戦争であり、そのためにはまず蒋介石を捕える必要があった。
9 中共の役割
こうした状況で延安に逃げ込んだ毛沢東と支那共産党(中共)は、ボロディンらの厳格な監督の下でソ連を祖国としソ連の支那工作に従事していた。
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第三章 西安事件
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1 反乱
一九三六年十二月十三日西安事件が発生した。
作戦指導を了えた蒋介石が南京に帰還する日の早朝反乱を起こした張学良,楊虎城の部隊に華清池の宿舎を包囲され寝間着姿で逮捕されたのである。
世界が固唾を飲んで見守っていると、蒋は二週間後に無事釈放され南京に帰還した。
すると彼は九年がかりの支那統一方針を放棄し、共産党攻撃を止めてしまった。
そして対日戦の準備を始めた。
その後分かったのは張学良らは中共の指示を受けており、逮捕後蒋介石を直接脅迫したのは中共の周恩来だった。
彼が姿を現し「校長、お久しぶりです」というと蒋介石は驚きと処刑の恐怖で狼狽したという。
悪党であるが千両役者である。
2 張学良のその後
釈放された蒋介石が南京へ帰還しようとする朝と、張学良が突然飛行機に乗り込んできた。
蒋介石が驚いて「部下がいるのに」というと、「構わない」という。
しかし宋美齢が長居は無用と出発を急がせたので、張学良は南京に到着した。
これは張学良が状況の急変から共産側に口封じされると見て脱出したと思われる。
張学良は形式的な裁判で釈放されたが、蒋介石に幽閉され二度と軍事指揮権を与えられることはなかった。
そして台湾に迄連行され、最後はハワイで百歳で死亡した。
張学良が処刑されなかったのは、満洲で農民から絞り取った莫大な金(五億ドル)を蒋介石に献上したからという。
3 蒋介石のソ連傀儡化
翌年四月には人質状態にあった蒋の長男経国が、十二年ぶりにロシア人妻をつれてモスクワから送り返されてきた。
このため欧米の歴史家は、蒋介石はスターリンに自分と息子の生命を脅されて降伏したものとみている。
そして何らかの降伏の証拠を作られた。
共産党は冷酷で何でもやるから、恥ずかしい写真を取られたのかもしれない。
このため蒋介石は釈放後もスターリンを恐れ思うままに操られたのである。
4 計画性
この事件は偶発とされるがそうではない。
実は事件の半年前に、米国人エドガ・スノーが共産党の本拠地延安を訪ねた時、周恩来から蒋を使った対日戦構想を聞いている。
周は「蒋の対日攻撃の初日が彼の没落の始まりになるだろう」と予言した。
ただし蒋介石に警戒されないように、周が非公開を求めたので、スノーは二十年後の一九五七年になって「中共雑記」の中ではじめてこの挿話を紹介している(3)。
5 スターリンの偽装工作
この時、毛沢東が捕えた蒋介石を殺そうとしたところ、スターリンが止めたので足を踏み鳴らし真っ赤になって怒ったという話が流布しているが信じ難い。
というのは蒋介石の利用は既定の方針であり、当時の毛沢東はソ連の指導下にあったから勝手にソ連が関係するこのような重大工作はできなかった。
また狡猾な毛沢東が左翼の神と畏怖されたスターリンにたてつくことなど力関係からみてあり得ないからである。
したがってこれはスターリンの首謀性を隠すために時系列を狂わせる偽情報と思われる。
この話はもともとスノーがソ連系共産主義者の宋慶齢から聞いたものというから根拠はないのだ。
スターリンはその後工作責任者のボロディンを一九四四年モスクワに召還すると「日本のスパイ」名目で極北の強制収容所に送り処刑している。
他の工作員ボゴロフ、ラービンもその前に召喚され処刑されている。
西安事件と支那事変工作の口封じである。
6 真相秘匿
蒋介石は釈放に条件はなかったと釈明しているが、これは降伏した事実を公表すれば自分の声望が失われるからである。
また中共は完全黙秘だ。
何か言えば西安事件に注目が集まり陰謀工作がばれて損するからである。
当時のソ連はあろうことか日本の陰謀と発表し、ロシアは今も西安事件の工作記録を公開していない。
張学良は事件後蒋介石に投降し戦後台湾にまで連行されたが、戦後のNHKとの歴史対談では西安事件の核心になると、蒋介石の死後であったが口をつぐんでいる。
蒋介石夫人の宋美齢もだんまりだ。
7 支那事変のカギ
このように西安事件の関係者はひたすら真相を隠しその意義を矮小化しようとする。
しかしそれは逆にこの事件こそが支那事変のカギであることを意味しているのである。
当時の日本は朝日新聞が報道したように事件の裏にソ連ありと正しく見抜いていた。
しかしそれが支那事変の準備工作であることに気づかなかったことは実に残念であった。
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第四章 支那事変
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1 準備期
近代戦は補給戦といわれるが蒋介石は対日戦のために兵員百万人と馬匹十万頭の半年分の食糧を用意したと記している(4)。
実に驚くべき膨大な物量であり、莫大な費用である。
これと同時にソ連は将軍級や操縦士などを含む赤軍顧問団と多数の軍用機、大量の兵器弾薬を日本に見つからないように外蒙古や中央アジア経由で蒋介石軍に送りこんだ。
そして八月に入ると上海郊外の水路地帯(クリーク)に極秘裏に建設された数万棟のトーチカには二十四時間連続射撃が可能な水冷式重機関銃が据え付けられ、あとは日本軍をこの死角のない巨大な陣地に誘い込むばかりになっていた。
しかし日本側は蒋介石が立て続けに起こした挑発攻撃に目を奪われこの恐るべき死の罠に気がつかなかったのである。
2 挑発期
ソ連側の最初の対日挑発行為は一九三七年六月に満ソ国境で起きたソ連のカンチャーズ越境事件である。
日本軍の目を支那本土から満洲にそらした。
そして翌七月から蒋介石が矢継ぎ早に対日挑発を開始した。
それが盧溝橋事件、廊坊事件、広安門事件、通州日本人大虐殺、そして八月九日の大山中尉虐殺事件である。
この狙いは国際社会に対して開戦責任をごまかすことと、日本国民を怒らせ冷静さを失わせることであった。果たして日本国内は支那側の残虐行為に激昂した。
盧溝橋事件の支那側発砲者は蒋介石が西安事件で共産側に降伏している以上国共どちらであろうと同じである。
なお、蒋介石の米人軍事顧問シェンノートは七月三一日、蒋介石から対日開戦命令を受領したと記録している(5)。
蒋介石は上海に国際協定に違反して正規軍兵士を労働者に偽装して侵入させ、武器兵器を搬入し、陣地を構築し戦争の準備を進めた。
3 攻撃期
八月十三日蒋介石はついに正体を現し、五万の国民党軍が宣戦布告なく上海の日本人居留民を奇襲した。
当時上海には激化する排日攻撃を逃れて長江沿岸から脱出してきた日本人が二万人以上集結していた。
そこで日本海軍は急遽軍艦から水兵を下ろし、約四千名が臨時の陸戦隊となり軍民一体となって必死に防衛にあたった。
すると翌十四日多数の蒋介石軍機が上海を襲い日本の巡洋艦出雲を爆撃し、さらに国際租界に無差別爆撃を行った。
このため支那人や外国人など一千名以上が爆死した。
この中に後のライシャワー駐日米国大使の令兄が含まれていたことはよく知られている。
4 中ソ秘密協定
そこで日本が反撃し十五日から台湾からの爆撃機や空母加賀の艦載機が上海周辺の敵飛行場を攻撃した。
この時、南京の大校飛行場でソ連製戦闘機、爆撃機が多数撃破されている。
これは八月下旬の中ソ協定の公表以前からソ連軍がすでに蒋介石軍に参加していたことを示し、中ソ秘密協定の存在を示唆している。
5 日本政府の選択
この間、日本政府内では対応方針をめぐり意見が分かれた。
陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は撤退を主張した。
その理由は大敵ソ連が控えている以上支那本土では戦争はできない。
また撤退なら民間への補償も少なくて済むが、戦争になれば比較にならない莫大な費用が必要になるからであった。
政治的な高い視点から見る正しい判断だった。
しかし近衛内閣は国民の怒りと支那軍閥の軍事力を軽視していたことから、意思決定が遅れた。
この間に現地事情は急速に悪化した。
そこで蒋介石に一度大打撃を与えてから講和することにした。
だが大陸の長期的な大戦争を望んでいた日本人は誰一人いなかった。
6 上策は撤退
この時米軍の支那通スティルウェル大佐は、「日本の上策は撤退、下策は反撃して大陸の全面戦争に引きずり込まれること。しかし撤退には強力な政府と冷静な国民性が必要。日本は結局下策をとることになるだろう」と予想したという(6)。
まさにそのとおりとなった。
実に惜しまれる日本の選択であった。
7 日本の大被害
八月二十三日、日本政府は本格反撃のために救援軍を上海近郊に上陸させた。
しかしそこで待っていたのは想像を絶する大規模なトーチカ要塞と激烈な弾幕攻撃であった。
名古屋第三師団一万人は十日間で壊滅した。
その惨状を体験者の戦記から引用する。
「ウースンの高い岸壁を上がった私の目を射た風景は地獄だった。
数千の日本兵の死体が折り重なって並んでいた。
二十三日に上陸した名古屋第三師団将兵の変わり果てた姿であった。
中国軍の射撃は弾幕攻撃で数発でなく数百発が飛んでくる。
占領した敵陣地で優秀な水冷式重機関銃を見つけた。」(7)
8 南京占領
その後日本軍は日露戦争の旅順攻撃を上回る大量の死傷者続出に苦しみ続けたが、十一月五日上海の背後の杭州湾に逆上陸を敢行した。
すると挟撃された蒋介石軍は混乱し南京を指して潰走した。
現地日本軍は敵の首都さえ占領すれば戦争は終わると考え、猛追し、激戦の結果一九三七年十二月十三日に南京を占領したのである。
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第五章 日本の講和努力
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1 独逸工作
支那事変の特徴は紛争の当初から日本が様々なルートで講和を模索したことである。
しかしルーズベルトは日露戦争の時と違い仲介を拒否した。
それどころか火に油を注ぐように事変の翌年から蒋介石に総額十五億ドル(当時)に上る巨額の軍事援助を始めるのである。
そこでドイツに仲介を依頼したところ、ヒトラーは対ソ戦略上極東の反共同士の戦争は望ましくないので一九三七年十一月からトラウトマン駐支大使に命じ講和工作にあたらせた。
2 裏事情
これについて重要な情報がある。
汪兆銘によれば同年十二年十二月六日漢口で国民党の国防最高会議が開かれトラウトマン提案の経過が報告された。(汪は蒋の依頼で会議を代行した)
この報告によれば、蒋介石が南京で有力者の意見を聞いたところ、白崇禧将軍が「これだけの条件なら日本と戦争をしている意味がない」と講和の受諾を主張したので、他の幹部も賛成したという(8)。
しかし米国のソ連問題専門家のD・J・ダーリンによると、この時実は蒋介石はスターリンに指示を仰いでいる。
内心蒋介石は自分が損する戦争なので講和したかったのだろう。
すると十二月三日、スターリンは講和すれば蒋を支持しないと回答してきた(9)。
この結果蒋介石は回答に難しい条件をつけてきたので、トラウトマンは実質拒否の意味と理解し落胆した。
3 独逸そそのかし説の疑問
なお独逸(ヒトラー)が武器を売りたくて蒋介石に対日戦をけしかけたという説があるが疑問である。
というのは支那統一直前の蒋介石にとって対日戦は大金を失う上統一が遅れるので何の利益もないからだ。
またヒトラーは戦争を終わらせるために積極的に講和を仲介している。
そして翌一九三八年八月には軍事顧問団全員を蒋介石の強い残留要請にも関わらず帰国させている。
これは蒋の反共性に疑問を抱いたからであろう。
ソ連・蒋側の狙いは日独離間である。
4 偽南京事件
日本軍は南京の占領に当たっては、講和交渉中だったので、松井司令官が戦闘部隊をすぐに城外に出すなど必要以上に注意した。
だから日本軍側に一般市民の大虐殺を起こす動機がまったくなく、物証も皆無であることからいわゆる南京大虐殺が完全な嘘とわかるのである。
また刀による戦闘は六十センチに接近する必要があるから白兵戦以外には起こり得ない。
だから機関銃弾が飛び交う戦場で百人斬りなどあり得ないことが分かる。
5 投降兵の処理問題
ある日本人カメラマンは、戦場では一瞬も油断はできない。
一度自分がやられそうになり、相手をやらなければ自分がやられると言う事をしみじみ痛感させられたと述べている。
戦場では投降兵は管理できなければ自分が殺されるので、先に処刑するのが古来の野戦のルールである。
日本軍は支那兵のように残虐ではないが過度の寛大さを求められても困る。
油断は武士の恥である。
おだても騙しの手口であるからその手に乗らないことだ。
6 正しい近衛声明
その後も日本は何度も講和を提案したが、蒋介石は日本側の手の内を見るだけで真剣に対応しなかった。
これは講和を決める能力がなかったからである。
だから蒋介石を相手にしないという近衛声明は正しかった。
7 汪兆銘政権
講和工作の不調から日本は親日政権をつくることにし、国民党の蒋介石と並ぶ最高指導者である副総統の汪兆銘を招聘した。
汪兆銘はソ連に隷従する蒋介石に不満を抱いていたので、重慶からハノイ経由で脱出した。
あわてた蒋介石はハノイに刺客を送ったが失敗し、汪兆銘の秘書が射殺された。
汪兆銘は日本の軍事力の下で南京に親日政府を樹立した。
この政府が支那の沿岸部と人口の半分以上、重慶を除く一千都市、工業生産の九割以上を七年間にわたり日本と共同統治したのである。
蒋介石は対日戦争で負け続け、実質重慶の一地方政権となった。
支那人は治安が改善し日本軍が現地人の生活に関与しなかったので、清朝滅亡後初めて落ち着いて暮らすことができた。
日本の投資で多数の企業も設立され、多くの支那人が雇用された。
だから中共の言うような日本軍による民間人の死者三千五百万人説は、国民党軍の戦死者数でさえ公式発表で百三十万人であり、動機も物証も皆無なのでまったくあり得ない話である。
8 ミョウヒン工作
蒋介石からの唯一の講和提案は一九四五年三月のミョウヒン工作である。
南京親日政権の高官であるミョウヒンが蒋介石からの講和の提案を持ってきた。
それは戦後の内戦再開に備えて日本軍十万を貸して欲しいという虫のよいものだったと云う。
しかしすでに米軍が本土に迫っており、時遅くまとまらなかった。
ミョウヒンは戦後蒋介石が南京に戻ると最初に処刑された。口封じである。
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第六章 その後の支那事変
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1 蒋介石の厭戦
蒋介石は南京を失うと奥地の重慶に逃れた。
米国は蒋介石に莫大な援助を行い、援蒋補給ルート維持のために日米開戦前に義勇空軍まで派遣したが、蒋介石は自軍を弱める対日戦を嫌がった。
そして米国の腹を見抜き、援助をくれなければ日本と講和すると脅して米国をハラハラさせた。
米国も蒋介石に騙されていることが分かり、一時は延安の中共にまで接近したが、うまくゆかず、結局蒋介石に代わる傀儡を見つけることができなかったのである。
蒋介石と家族、国民党幹部は、米国の援助を闇市場に流すなどして私腹を肥やし莫大な富を蓄えた。
米国は結局B二九爆撃機の開発もあり対日主戦場を太平洋の島伝いに変更し、米国にとっての支那事変の価値は低下した。
2 スターリンの冷酷
スターリンは蒋介石に講和を拒否させると敗北続きの蒋介石の督戦と独ソポーランド分割に備えた日本軍牽制のため張鼓峰事件とノモンハン事件を起こした。
一九三九年のノモンハン事件を日本が起こしたと言う説が戦後流布しているが、元ソ連の将軍は、支那事変で苦しむ日本がソ連を攻撃するなどよほどの馬鹿か間抜けしか思いつかない愚論であると片づけている。
ソ連はあらかじめシベリヤ鉄道から一千Kmも離れたノモンハンの原野に数千の戦車や車両、数百の飛行機、そして二十万もの大軍を集結させていたのである。
一九四一年独ソ戦が始まるとかねての予定通り東部国境の心配なく西部戦線に専念した。
蒋介石への軍事援助は中止し巧みに米国に肩代わりさせた。
そして一九四四年からは早くも戦後をにらんで、蒋介石に貸し付けた対日戦の軍事援助の返還を厳しく要求している。冷酷そのものである。
3 ゾルゲの役割
ゾルゲは独ソ戦の正確な開戦情報をスターリンに送ったが、ソ連は緒戦で大敗した。これをスターリンの油断とする説があるが間違いだ。
スターリンには世界中からチャーチルを含めて八十通以上の警報が入っていた。
まして百万人以上のドイツ軍の国境接近は隠すことはできない。
スターリン自身モスクワでチャーチルに「知っていた」と述べている。
これは敵を奥地に引き込むためであった。
ナポレオン戦争のクツゾフ将軍の戦略を真似たものである。
また一九四一年の日本の南下方針の通報が陥落直前のモスクワを救ったという説があるが、スターリンはドイツ軍を奥地に引き込み厳冬の到来を待っていたのである。
その逆襲のために完全装備の極東軍を温存していた。
支那事変と米国の圧迫に苦しむ日本が広大なシベリヤを北上するわけはない。
スターリンはゾルゲを用済みとみており、彼のモスクワのロシア人妻も上司のベルジン将軍も処刑されている。
そして日本にはさらにコード名エコノミストという日本人スパイが政府中枢にいたのである。
彼は商工大臣と昼食を取るような高いレベルの人物であったが、摘発されずに戦後世界に逃げこんでいる。
4 ヤルタ密約と日本の被害
一九四五年二月のヤルタ会談ではスターリンは米国のルーズベルトに対し、満洲の代理占領とその後の蒋介石への移管を堅く約束した上で、代償として帝政ロシアの支那利権や日本固有の領土等を要求した。
ルーズベルトは自分の腹が痛まないので承諾し、ヤルタからの帰路侍医に「安い買い物をした」と述べたのは有名だ。
スターリンが約束を守ると思ったのだ。
そして二か月後保養先で急死した。
しかしこの重大な密約は当事者の蒋介石には後で知らされ承諾を強要されたのである。
これは蒋介石の傀儡性を明らかに証明するものである。
ソ連は独逸を滅ぼすとヤルタ密約を名目に満洲、樺太、千島を侵略した。この時満洲では関東軍五万人が防衛戦で戦死し、日本降伏後男子七十万人以上が奴隷としてソ連に連行され七万人以上が重労働と虐待で殺された。
さらに残された邦人老人婦女子幼児が逃避行の途中ソ連兵や支那人、朝鮮人に襲われ、大虐殺、虐待、暴行、飢餓、疫病等により二十五万人以上が悲惨な最期を遂げた。
樺太、千島でも同様の民族の悲劇が起きた。
5 米国の失敗
米国はソ連の満洲攻撃が迫るとヤルタ密約を実行させるため、対日原爆投下で威嚇した。
しかしスターリンは米政府の大陸の地上戦を避ける厭戦方針を見抜いて違約し、満洲を毛沢東に渡してしまった。
この結果国共内戦が再発するとソ連の支援を受けた毛沢東が蒋介石に勝利し、一九四九年には米国はあれほど狙っていた支那の全拠点から追い出されてしまった。
まさにマクマリーの予想通りとなりトンビに油揚げをさらわれたのである。
そこで一九五一年議会でマッカーサーは「支那満洲の共産化と喪失は米国太平洋政策百年の最大の失敗。戦争は日本の自衛であった」と総括した。
米国の狙いは日本の占領ではなかった。
6 日本の敗戦
日本はスターリンと蒋介石の挑発に乗り不用意に反撃したため、講和のない大陸の泥沼戦争に引きずり込まれ米国からも攻撃を受けて敗戦した。
近衛文麿元首相は敗戦直前昭和天皇に上奏し、左翼に政治を動かされた可能性を報告した。
近衛文麿はゾルゲスパイ事件の被害者であり、日本がスターリンの罠に落ちたことに気付いたのである。
7 日本軍の撤退
日本敗戦の知らせは支那では日本軍が戦場で終始圧勝していたので日本軍人だけでなく現地人も驚いたという。
真面目で軍規厳正の日本軍人の評価は高く、撤退時には娘の婿に欲しいという支那人もいたほどである。
しかしこうした日本軍に好意的な人は毛沢東が政権を取ると小商人に至るまで皆処刑された。
戦後大量の日本人が支那から迅速に引揚げることができたのは、米軍の支那派遣軍総司令官ウェデマイヤー将軍の配慮によるものである。
米軍の復員船がなければ蒋介石は無力だったから、敗戦で難民となった日本人は国共内戦再開の大混乱の中で全滅していただろう。
8 蒋介石の偽善
蒋の恩着せがましい「恨みに対して恩で報いる」発言の狙いは、被害者偽装と日本軍が中共軍に兵器を渡すことを恐れたための懐柔宣伝である。
実際にはエセ百人斬りの野田、向井少尉ら軍人や民間人を含む多数の日本人が蒋介石に冤罪で処刑されている。
エセ南京事件の責任者として銃殺された谷寿夫中将の「身は雨華台に散るとも、魂は必ず日本に帰る」という遺言は冷笑され、梅津何応欽協定の担当者酒井隆中将の遺骸は烏につつかれるまま放置されたとい(10)。
9 蒋介石の後悔
蒋介石は、米ソの手先として形だけ勝利したが、再発した国共内戦に敗北し一九四九年台湾に逃亡した。
蒋介石は国共内戦で敗勢に追い込まれると、戦前上海戦で失った二十四万の最精鋭部隊を惜しんだ。
また張学良によれば、蒋介石は「お前のために支那を失った」と終生許さなかったと云う。
自業自得である。
10 ソ連の勝利
米軍のウェデマイヤー将軍は「第二次大戦の勝者はスターリンただ一人。それは米英が戦争の勝敗にばかりこだわったのに対し、戦後世界を想定して戦争を指導したからである」と述べている(11)。
戦後スターリンが最高幹部を集め支那満洲を含むソ連の勢力圏が飛躍的に拡大した新しい世界地図を見せて「どうだ」と云うと一同讃嘆の余り声もなかったという。
12 毛沢東の「お礼」の意味
中共は一九三六年蒋介石に滅ぼされる直前西安事件で救われた。
翌年からはスターリンが捕えた蒋介石に支那本土に誘い込んだ日本軍を攻撃させ、講和を許さなかったので蒋介石の軍事力を弱体化することができた。
そして戦後国共内戦を再開すると、ソ連から与えられた満洲日本軍の没収兵器を使ってついに蒋介石を破り一九四九年、三十七年ぶりに支那満洲を統一したのである。
戦後毛沢東が歴史を知らない田中角栄首相の謝罪に対して、日本の「おかげ」で政権が取れたと礼を云ったのは、こうした支那事変の巨大なカラクリを知っていたからである。
しかしこれはスターリンと蒋介石の謀略により支那事変だけでも四十五万人もの前途ある青年を殺された日本を馬鹿にした毛沢東の悪意ある皮肉であることを忘れてはならない。
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まとめ
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支那事変を現代の目から見ると日本は加害者ではなく明らかに被害者である。
支那で戦ったからといって侵略戦争ではない。
朝鮮戦争やベトナム戦争の米国と同じである。
それなのに政府が謝罪を続けるのは、日本人が自分の歴史観を持たずいまだに東京裁判史観に縛られているからである。
しかし東京裁判こそ西安事件に始まる支那事変の日本人騙しの総仕上げだった。
このためあるオランダ人記者は誰に聞いても日本近代史を知らないので、「日本人には歴史はない。あるのは過去だけだ」とまで酷評している。
事実、戦前遺族が建立したあの勇敢な名古屋第三師団将兵の墓石像は忘れられ打ち棄てられたままである。
これではあまりにも英霊に申し訳ない。
そこで二十一世紀の今、日本人から見た合理的な支那事変の歴史観を構築し、戦後半世紀以上続く民族の歴史の空白に終止符を打とうではないか。
これによりはじめて我々は今後の中共の反日歴史非難をはね返し、後継者の子供たちに民族の誇りと自信を持たせることができる。
そしてこれこそが支那事変で倒れた数十万の英霊と今なお大陸に眠る非業の死を遂げた多くの同胞が待ち望んでいることなのではないか。
日本人の支那事変の本格的研究はこれから始まる。
参考書:(1)「大東亜戦争への道」中村粲著 展転社
(2)「平和はいかに失われたか」J・A・マクマリー著 原書房
(3)「中共雑記」E.スノー著 未来社
(4)「蒋介石秘録」蒋介石著 サンケイ新聞社
(5)「シェンノートとフライングタイガース」吉田一彦著 徳間書店
(6)「日中戦争」児島襄著 文藝春秋
(7)「上海敵前上陸」三好捷三著 図書出版社
(8)「石原莞爾の悲劇」今岡豊著 芙蓉書房出版
(9)「ソ連と極東」D・J・ダーリン著 法政大出版局
(10)「潜行三千里」 辻政信著 国書刊行会
(11)「第二次大戦に勝者なし」ウェデマイヤー著 講談社学術文庫
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