昭和13年1月16日、蒋介石相手にせずの政府声明(近衛文麿)が出ます。
「帝国政府は、爾後国民政府を相手にせず、
帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、
これと両国国交を調整して、
新生支那の建設に協力せんとす」
同年11月3日、東亜新秩序宣言が出ます。
「帝国の中国に求むるものは、
この東亜新秩序の任務を分担せんことにあり。
帝国は中国国民がよくわが真意を理解し、
もって指導政策を一擲し、
その人的構成を解体して、
更正の実を挙げ、
新秩序の建設に来たり参ぜるにおいては、
あえてこれを拒否するにはあらず。」
これは、このとき工作が進んでいた、
王兆銘の南京政府を想定した声明です。
12月22日、重慶を脱出した王兆銘はハノイに到着します。
この日、いわゆる近衛三原則声明が出されました。
「政府は、終始一貫、国民政府の武力掃討を期するとともに、
支那における、同憂具眼の士と携えて、
亜新秩序の建設に向かって邁進せんとす」
「日満支三国は、
東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、
相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。
「日本があえて大群を動かせる真意に徹するならば、
日本の支那に求めるものが、
区々たる領土にあらず、
また戦費の賠償に非ざることは明らかである。
日本は実に、
支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要な、
最小限度の保証を要求するものである」
この東亜新秩序の構想も、
三原則声明の文案も、
共産主義者尾崎秀実が書いたと三田村武夫は書いています。
尾崎はいう。
「帝国主義政策の限りなき悪循環を断ち切る道は、
国内における搾取・被搾取の関係、
国外においても同様の関係を清算した、
新たなる世界体制を確立する以外道はありません。
すなわち、世界資本主義にかわる共産主義的新秩序が、
唯一の帰結として求められるのであります。」
「この意味において、
日本は戦争のはじめから、
米英に抑圧されつつある南方諸民族の自己開放を、
東亜新秩序の絶対要件であると、
しきりに主張しておりましたのは、
かかるふくみをこめてのことであります。
この点は、
日本の国粋的南進主義者とも、
ほとんど矛盾することなく主張できたのであります。」
(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』による)
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