お話:日中戦争
◆1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校たちが1400名の兵を率いて反乱を起こしました。
軍部による独裁政権を打ち立て、国家改造をめざしたのでした。
これを2・26事件といいます。
陸軍中央はこの動きに同調しかけますが、昭和天皇が「無法を許すな、憲法を守れ」という明確な意志を示されたので、この反乱は鎮圧されました。
これ以後、軍部が支持しない内閣は成立しなくなりました。
◆そのころ中国では、国民党軍(蒋介石)が共産党軍(毛沢東)を追いつめていました。この戦いを国共内戦いいます。
しかし、西安事件が起きて、国民党は共産党と手を組んで日本と戦うことになりました。これを国共合作といいます。
この急変の背後には、ソ連(コミンテルン)の「日本を戦争に引きずり込み、国民党軍と戦わせろ。両方が疲弊した後に中国を共産主義国家にするのだ」という指令がありました。毛沢東はこの指令に従ったのです。
国共合作によって、共産主義者が国民党に入り込み、日中戦争を引き起こすためのさまざまな工作を進めていきます。
◆1937(昭和12)年7月7日、北京郊外で演習していた日本軍(中国が条約で駐留を認めていた今日でいう平和維持軍)が、いきなり中国軍から銃撃をうけました。これを盧溝橋事件といいます。
小競り合いになるが、日本は不拡大方針を堅持して、現地停戦協定が結ばれいったんは解決しました。
しかし、そこから、中国軍による停戦協定違反の攻撃や挑発テロが頻発します。これらの多くは共産党員による計画的な挑発だろうと推測されます。なかでも、通州で日本人市民の200人以上が惨殺された通州事件は、殺害された人数だけでなく、その殺し方があまりにも残虐であったため、「シナを討つべし!」という世論が一気に高まりました。
◆それでも日本は平和を求めましたが、8月13日、中国軍による上海(日本人が多数住んでいた)への大規模な攻撃が起き、日本も陸軍を派兵して、本格的な戦争に突入していきました。これを第二次上海事件といいます。
ここから日中戦争は本格化していきました。
このように、日中戦争は日本が引き起こした戦争ではなく、中国共産党と国民党が意図的に日本を引きずり込んだ戦争だといってよいでしょう。
◆日本軍は12月に首都南京を占領し、これで戦争は終わると思われました。
しかし、蒋介石は首都を重慶に移して「徹底抗戦」を宣言しました。
戦闘のたびに日本は勝利しますが、広い中国をすべて占領することはできず、長い泥沼
にはまったような戦争になっていきました。
毛沢東は戦略どおり、この長期戦を国民党軍と日本軍を戦わせて、共産党軍を温存する作戦です。
◆南京戦のとき、日本軍に不法行為があったとして南京事件とよばれています。
中国は30万人虐殺などという虚偽の数字を出していまだに日本を非難していますが、この事件の事実関係については学説が大きく分かれ、現在も論争が続いています。近年では、ゲリラをふくむ戦闘員以外の、一般市民の不法殺害はほとんど無かったという説が有力になっています。
◆日中戦争がここまで長期化したのはなぜでしょうか?
それは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスなどの欧米諸国が、中国国民党や共産党に、経済的・軍事的な援助を続けたからでした。
◆欧米諸国が中国の戦争を援助した理由はそれぞれ異なります。
イギリスとフランスは、すでに中国に持っていた利権を守り、拡大したいと考えていました。中国参入にやや後れを取っていたアメリカは、早く英仏に追いつきたいと考えていました。いずれも、日本が中国で中心的な勢力を持つような事態は避けたいのです。
ソ連(コミンテルン)は、前述したように、日本と中国国民党を戦わせて、両方がつぶれたところで、中国革命を起こし、共産党が権力をにぎりたいのです。
◆日本国民は、日中戦争の真の敵は、欧米諸国、とりわけ英米であると考えるようになっていきました。
◆この戦争全体を日中戦争(シナ事変)といいます。
日本は、泥沼に引きずり込まれたように、この戦争を続けざるを得ませんでした。
これは、違法行為やテロや攻撃を繰り返した中国をこらしめるという戦いであり、中国を日本の領土にしようなどという意志はまったくありませんでした。
日本は、何度も平和工作をしましたが実りませんでした。
その後も、戦闘には勝ち続けるが、戦争には勝てない状態が、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦まで続きました。
◆日本の敗戦後、共産党軍はいきなり国民党軍に襲いかかり、内戦は4年間続きました。日本軍との戦いで疲れ切っていた国民党軍(蒋介石)は台湾に逃れていき、1949年10月、内戦に勝利した毛沢東は共産党独裁の国家、中華人民共和国を樹立しました。コミンテルンの「日中戦争を革命へ」という作戦がついに実ったのです(蒋介石は台湾を占領し、中華民国を樹立しました)。
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