お話:満州事変



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お話:満州事変 (一九三一・昭和六年~一九四〇・昭和十五年)

■日本は、第一次大戦の後、「イギリス。アメリカと仲良くする道」を選んでやっていこうとしました。
 明治・大正の政治をつくってきたおもな政治家も、昭和天皇もやはり、英米(イギリス・アメリカ)と仲良くするのが正しいと考えていました。
 列強の中でただひとつ白人国ではない日本は、やはり弱い立場ですから、世界で一番、二番に強く豊かな国と組む方が安全で有利だからです。
 この時期を代表する政治家が幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)です。
幣原喜重郎幣原喜重郎

外務大臣の幣原は、中国のことは中国にまかせよう、アメリカやイギリスの考え方が世界の流れなのだから彼らとはなるべくもめごとを起こさないようにしよう、もめごとが起きてもなるべくがまんしよう、そして、資源の少ない日本は世界と貿易さえできれば繁栄できるのだと考えて、政治を進めました。
このころから日本の経済の大部分はアメリカと貿易にたよるようになっていきました。
そして、戦艦の数を減らしたりするなど、軍事力を小さくしていきました。

■ところが、幣原の政治(外交)はしだいに人気がなくなっていきました。

 不景気がますますひどくなり、貿易をしたくても、アメリカもイギリスも日本の輸出を閉め出すようになりました。
植民地が少なく、資源のとぼしい日本は、貿易ができなくなると国の力が極端に下がっていくので、これは国の生き死ににかかわる大変なことだと考える人が多くなったからです。
とくに、農村の貧しさはぎりぎりのところまできていて、子供を売ったり、欠食児童のことが毎日のように新聞にのりました。そして、仲良くしようとしても、日本の商品をねらいうちにして閉め出すようなアメリカやイギリスをひどいと思う人がふえていきました。
 また、アメリカに渡った日本人に対する差別もひどく、そのことへの国民の怒りも広がりました。
また、幣原は、外国ともめごとがあってもできるだけ日本ががまんする道を選びました。イギリスやアメリカや中国を怒らせないことが日本にとってたいへん重要だと考えていたからです。しかし、このような外国とのつきあい方を、五大国のひとつになったと思っていた人々は、あまりにも弱虫すぎるんじゃないかと非難するようになったのです。

■そうした声の代表は軍人とふつうの国民でした。
 不景気がますますひどくなり、政治家は金持ちの味方をして貧しい人のことはあまり考えてくれないように見えました。
こうして政治家に対する不信感が広がっていきました。そして、こういう国になってしまったのは、そもそもイギリスのような自由主義・民主主義の考え方をまねしてきたからだという考え方も出てきました。
 若い軍人や若い政治家や若い役人たちの一部は、このままでは日本はほろびていくばかりだと考えました。
彼らは、もう一度明治維新のような大改革をやり直そうという考えに近づいていきます。
彼らを「革新派」といいます。この革新派の考えと、軍人たちによる政治批判がしだいに結びついていきました。

 この人たちの考えの中には、アジア主義とよばれるものがありました。
それは、それは次のような考えです。

「もうアメリカやイギリスなど西洋の国々をたよるのはやめよう。
彼らは、長い歴史の中でアジア人を差別し支配してきた。
日本は実力を付けてその差別をはねのけて彼らと対等になったのだ。
これからは、日本を中心にしてアジア全体を白人の支配から救い出して、それぞれの民族が独立できるようにしていこう。
そして西洋世界とは別のアジア世界を築いていこう。
西洋人の植民地をゆるしておいて、日本だけが彼らの仲間になるのはおかしい。
日本はアジアのリーダーとなって、アジアをまとめていこう。
それこそ誇り高い日本民族の生きる道ではないか。」

 この「アジアのリーダーとして生きよう」という考えと「イギリス・アメリカの仲間として生きよう」という考えが対立して、これからの日本の歩みがつくられていきます。

■日本の一部になっていた朝鮮の北側に、満州という広い土地がありました。
ここは、日露戦争以来の日本の利益が国際社会に認められている土地でした。
満州鉄道という鉄道の経営や炭坑の経営を日本がやり、一定の利益をあげていました。日本人もたくさん移り住んでいて、それらを守るための軍隊(関東軍)もそこにいました。
 この満州は、いまでは中国の一部ですが、当時はそうは考えられていませんでした。
中国自身が、いくつかのグループに分かれて戦争をし、国としてはまとまっていなかったからです。(国民党・共産党・軍閥)
 この満州の利益は、十万人の日本兵の血(日露戦争)を流して手に入れたものでした。
そして、そこには、石炭や鉄などの豊かな資源もあります。
不景気がひどくなり、政治への批判が高まるにつれて、鉄道や炭坑だけでなく、満州全体を日本のものにしようという考えがあらわれてきます。
そして、「満州は日本の生命線」だという考えがさけばれるようになりました。
「死にかけている日本の命を守るための土地」という意味です。

 また、そこでソ連(共産主義)の侵略から朝鮮・日本を守るという意味もありました。
 西洋列強が植民地どうしの貿易で栄え、日本の商品の輸出を閉め出している中で、「日本だけで自給自足する」ためには、満州だけは必要だということなのです。
 この考えに国民の多くが賛成するようになっていきました。

■ところが、そのころしだいに中国では反日行動が盛り上がってきました。
 そして、中国人の中には、満州にある日本の利益をじゃましたり、もめごとを起こしたりするグループが出てきました。
 満州鉄道の運行をぼうがいしたり、日本人の子どもが暴行を受けたり、日本の商品を買わない運動が起きたり、日本の軍人の殺されたりといった中国人による事件が数百件以上起こりました。
 なかには、共産主義者による破壊活動もありました。これはソ連(コミンテルン)の命令に従って、満州や中国に混乱と無秩序、できれば戦争を引き起こそうというたくらみでした。共産主義革命を引き起こすのが目的です。

 満州の日本の利益は、中国と条約を結んで約束した利益なので、当時の国際ルールからすれば、中国はそのじゃまをすべきではありません。
 じゃまどころか、これはテロを含む反日活動ですから明らかに違法です。

 しかし、中国の立場に立てば、昔日本の幕末にあった攘夷運動ににているかもしれません。イギリスや日本など中国に利益を持つ国(帝国主義)に反対する運動が起きてくるのも無理はありません。
 問題は中国政府がこれを取り締まらず、放置していたことです。
 また、イギリスなどの西洋の国よりも、まず日本を実力で追い出そうとしたことです。
 日本は中国の法律に違反する事件をなんとかしてほしいとアメリカにもたのみましたが、アメリカは中国のほうに味方して日本の正しい主張を受け入れません。
 アメリカは日本が中国で勢力を伸ばすのを警戒していたからです。

(こういう点では、明治日本は不平等条約を改正するために、テロのようなことは引き起こさず、我慢に我慢を重ねて、あくまで国家としての実力(富国強兵・日露戦争勝利)をつけた上で、話し合いで対等な関係を築いていきました。日本のえらいところです。)

 前にのべた幣原喜重郎は、そうした中国の動きを少しずつ認めて、いまはがまんするのが、最後には日本の利益になるという考えでした。政府はこれらの事件にきちんと対決して解決することができませんでした。
 しかし、国民が求めている現実は、いまのこのひどい状態をなんとかしろということでした。
 北からはソ連の共産主義が、南からは中国の排日運動がせまってきます。
 こうした中で、この満州の秩序と安全問題を解決することと、満州は日本の自給自足のために必要だという考えがむすびついていきました。

■一九三一年(昭和六年)九月十八日夜。満州鉄道の線路が爆発する事件が起きました。
 関東軍(満州にいた日本陸軍)は、これを中国軍のしわざだといって、ただちに奉天などを攻撃しました。
しかし、これは実は関東軍自身がやったことでした。
 「満州は日本の生命線」と考え、そのために日本が満州を手に入れるべきだと考えていた石原莞爾中佐や板垣征四郎大佐などが相談してやったことだったのです。
 そして、この事件を口実に、関東軍はあっというまに南満州を全体を占領してしまいました。
石原完爾石原完爾

■日本政府は、この計画をまったく知りませんでした。
 幣原外務大臣でさえ、新聞の朝刊で知るしまつです。
 陸軍の中央ははじめは反対でしたが、関東軍のいきおいに押されて賛成にまわりました。
 新聞も国民の意見もこれまでの我慢が爆発したように、賛成に動いていきました。
 政府は、これは日本の運命にとって正しいやり方ではないからやめるように命令しましたが、関東軍はこれを無視しました。
 ぎゃくに、内閣の中で意見が分かれて、若槻総理大臣も幣原外務大臣も内閣を総辞職するしかありませんでした。

■関東軍は、満州を日本の領土とはせず、一九三二年(昭和七年)三月、「満州国」という新しい国をつくりました。
満州国旗満州国旗

 そして、満州人・中国人・蒙古人・日本人・朝鮮人の五民族が仲良く暮らす理想の国(五族協和)を作るとうたいあげました。
 彼らは、日本政府の考えや命令にはもうまったく関係なく行動していました。
 国民の多くが賛成するだろうと考えていたからです。
 イギリスやフランスは日本と同じように中国に利益を持っていたので、どちらかといえばこれを認めるしかないと考えていました。
 まだ中国にまだ進出できていないアメリカは日本を強く非難しました。
 満州事変は、第一次大戦後にできた「パリ不戦条約」に違反するというのです。
 それはただ支配したいと言うだけで一方的に戦争をしかけるのはいけないという条約でした。

 しかし、軍人や国民の多くは、満州事変は「中国人の暴力から日本を守るため」と「アメリカやイギリスに輸出を閉め出された日本が生き残るため」という二つの理由で、自衛戦争(国を守るための戦争)だと思っていました。
 満州国を日本政府が認めれば、アメリカを敵にまわし日本が孤立してしまうと考えた犬養首相は、満州国を認めない方針を立てましたが、軍人たちに暗殺されてしまいました(五・一五事件)。
五一五事件五・一五事件の記事

■一九三二年(昭和七年)九月十五日、日本の斎藤内閣は、ついに満州国を国として認めることにしました。
 皇居前は、旗とちょうちんの波でうまり、たくさんの市民のお祝いの行列がくりだされました。
 内田康哉外務大臣は「たとえ日本が焼け野原になるとしても、満州国を認める」と演説しました。

■一九三三年二月、国際連盟で、満州国について話し合われました。
 その内容は次のようなものでした。

「満州国は、そこに住む人の自主的な独立運動でできた国ではないので、これは認めない。
 しかし、満州での日本の利益と、日本と満州の関係は認める。
 だから、国とはしないで、中国の一部だが日本と関係が深い「満州地方」としてやっていけるように、日本と中国で新しい条約を結びなさい。」

 それは満州における日本の利益は正当だと認めていましたが、満州国として中国から独立させることは認めないという考えでした。
 これに投票して、四二ヶ国が賛成しました。日本はあくまで「満州国」という独立国にこだわって反対しました。タイだけは、日本の気持ちも考えて棄権しました。つまり、四二対二で日本は負けたのです。

 「中国には安定した政府がなく、国家とはいえない。満州のためにも満州国が必要なのだ」と自信満々の演説をして負けた松岡洋右外務大臣が帰国したとき、国民は熱狂的な大歓迎でむかえました。
日露戦争の時の小村寿太郎の帰国のさびしさとはまったくちがっていました。こうして、三月、日本は国際連盟を脱退しました。

■その後、満州事変は終わり中国との間に停戦条約が結ばれ、しばらくの間平和が続きました。
 満州国は、その後大きく発展し、日本人・中国人・朝鮮人などが集まった新しい近代国家として大きく発展していきました。けれども、日本の立場が世界から十分に理解されることはありませんでした。

■一九三六年年二月二六日、二・二六事件が起きます。若い軍人たちが、自分たちの部下を使って反乱を起こし、「昭和維新」とよぶ国づくりに立ち上がったのです。
 彼らは、斎藤内大臣や高橋大蔵大臣などを殺して、首都東京の占領をはかりました。
 これに対しても、陸軍大臣は「気持ちはよくわかる」といってあまやかすしまつでした。
 ふだんは政治には口を出さない天皇もこのときばかりはうろうろして解決できない政治家たちを怒りました。
 昭和天皇が「法を守らない反乱軍を許してはならない」と言わなければ、この反乱は成功していたかも知れません。
 反乱軍は鎮圧されましたが、この事件で、ますます軍の中での上下関係はあやしくなり、さらに、政府と軍の上下関係もますますあやしくなり、政府が軍の考えをおさえて政治を進めることがむずかしくなっていきました。

■こうして、しだいに日本は、軍人たちやそれに賛成する政治家の考えで政治が進められるようになっていきました。軍隊の考えにさからうような政治家は総理大臣になれなくなり、総理大臣も軍隊に反対されると大臣をやめなくてはならなくなりました。
 国の政治の中心がバラバラになっていき、だれが本当のリーダーなのかわからなくなっていったように見えます。
 しかし、国民のほとんどは、むずかしい世界をわかりやすく説明し、元気良く日本の未来はこうだと、こうやっていくんだ言い切り、どんどん実行していく軍人たちをたのもしく思っていました。
 それにくらべて、イギリスやアメリカと仲良くするという方針は、しだいになさけなく見えるようになっていきました。
 なぜなら、日本に対してひどい仕打ちをする国を友人としてたよりながら裏切られ、中国の日本に対するいろいろな事件にもきちんと手を打たず、国民には「とにかくがまんしてくれ」というばかりなので、彼らが本当に日本や日本国民のことを考えているのかどうかあやしく思えるようになったからです。

■こうして日本人の多くは、満州国をつくったことは大成功だったと考えるようになりました。
 事実、東アジアのにおける日本に次ぐ近代国家として、満州国は繁栄していきました。
 たくさんの日本人開拓移民が満州に渡り、内戦が続く中国からは中国人が大量に移り住んできました。
 満州帝国は、1945年日本の大東亜戦争の敗戦と同時に滅びました。
 わずか13年間のまぼろしの帝国となったのです。
あじあ号南満州鉄道の特急アジア号

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (3件)

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    こんにちは。
    こちらの記事に一点指摘をさせて下さい。

    「満州」という表記についてです。

    「満洲」という漢字は、「マンジュ」という固有名詞の音訳であるから、「満州」と書くのは歴史的にみて正確ではない。
    「満州」と書くと、「満人の地」という意味になるが、そもそもこのことばに土地の意味はなく、種族の名前であった。
    となりの「沿海州」は、もともと「海に沿った地方」というロシア語からの翻訳であるから、両者ではことばの成り立ちが違うのである。
    (宮脇淳子『世界史の中の満洲帝国』PHP新書、2006年、18頁)

    とのことです。
    ジェシェン(女直)という種族の一部族長ヌルハチの勢力圏が「マンジュ・グルン」と呼ばれており、
    その息子ホンタイジが元朝ハーンの玉璽を手に入れた後、種族名をジェシェンからマンジュと改めたそうです。
    もしかしたらとうに御承知の事であり、
    小中学生を対象とするに当たり使用漢字ついての配慮等の事でありましたら、
    どうぞお聞き流しください。

    おまけでもう一点私見を述べさせてください。

    2.26事件で昭和天皇が御意思を表明されるに当たり、
    政府高官が次々殺されて閣議も開けないような状態、
    つまり「憲法体制が維持されないような状態に陥った」、
    という状況説明が少しでもあるといいなと思ったのですが如何でしょうか?

    「天皇陛下」という御存在が我が国の最終的な安全保障を担われるという事を表す実例と思いますので、
    その事を印象付けられる良い機会なのかなと思いました。

  • SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    tak様

    いつも鋭いご指摘をいただき感謝です。

    「満洲」が正しいことは宮脇さんの同じ本で読んでいました。
    ユーチューブで見られる番組でも、満洲やシナについて学ぶことが多いですね。
    漢字の評価は、授業で使用している教科書の表記を使っています。
    新しい教科書をつくる会の自由社版歴史教科書です。

    また、2.26の天皇ご親裁が帝国憲法体制が守れないための危機管理であったという見方を、私は昨年倉山満先生の講義で初めて知りました。目から鱗でしたね。
    これから授業の中で生かしていきたいと思います。

    日本中の教室が東京裁判の検事側の見解で昭和の戦争を教えています。
    傷はたくさんありますが、このブログは日本でたぶん唯一の弁護側に立つ歴史教育をめざしています。
    どうかこれからも応援してください。ありがとうございました。

    なお、「物語満州事変」のプリントはいまは使っていません。

  • 門真市立歴史資料館

    門真市立歴史資料館は、京阪門真駅から徒歩数分のところにあります。
    ただし地形的に奥まった位置にあるので、車だとわかりにくいです。
    ワタクシのポンコツナビは、ありもしない細い道を指示してくれました。
    「こんなとこ、徒歩でも通られへんちゅーねん。もうっ」

    それはさておき、同じ道を何度もグルグルと回った後、ようやく目的地に辿り着くことができました。
    そこまで苦労した甲斐があれば良…

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