高杉晋作の国づくりの大方針
【板書】1839年、長州藩の萩に生まれる。
【説明】黒船=15歳。
19歳で松下村塾に入る。
21歳で、松陰が死刑になる。→幕府に対する怒り。
22歳で結婚(雅子)
2 晋作の国づくりの大方針
■24歳で清国に行く。
■資料「高杉晋作の清国行き」を配り、教師が読む。
なるほどそうだなあと思うところに線を引きなさい。
高杉晋作の見た清国
高杉晋作は二十四歳のときに、長州藩の命令で、清国に行きました。日本より前に、西洋によって開国させられた清国の様子を見るためです。
上海(シャンハイ)につくと、晋作はおどろきました。清国に来たはずなのにそこはまるで西洋の国のようだったからです。たくさんの西洋の船や軍艦が港をふさいぐようにとまっています。港町には西洋風の建物がならび、屋根には西洋の国旗をなびかせています。
さらに町の中を歩いてみるともっと驚くことが見られました。お金をはらわなければ通れない有料の橋があり、しかも、お金をはらっているのは清国人だけで、西洋人はただで通れるのです。アジア第一の大国である清国が、西洋の国に支配されたような国になってしまっていたのです。
晋作は、日記にこう書いています。
「中国人はまるで西洋人のめしつかいのようだ。イギリス人やフランス人が道を歩いてくると、中国人ははじに寄って彼らに道をゆずっている。上海は中国の領土だが、これではイギリスやフランスの植民地になってしまったのと同じことだ。」
こうして、晋作は日本の危機の本当の意味がわかったのです。
清国のひさんな現実を見た晋作はこう考えました。
「世界は弱肉強食の時代になっている。西洋は軍事力にものをいわせて、アジアを支配している。まちがったつきあい方をすると西洋人の思うがままにされてしまうのだ。西洋のめしつかいのような清国のひさんな姿は、明日の日本の姿になりかねない。このままではいけない!」
*線を引いたところを発表させる。列指名。
帰国した高杉晋作は、国づくりの二大方針を考えました。高杉が考えた方針の( )に言葉を入れなさい。
【板書】
①開国し、日本を( )と対等につきあえる強い国にする。
②( )を倒し、日本を( )を中心に一つにまとまる国にする。
3 大方針の①を検討する
■①について、意見を発表させる。正解は「西洋(欧米)」→用語「西洋列強・欧米列強」を教える。
①の方針の中で、当時の長州藩の中で、高杉晋作だけがもっていた考えがあります。それは、どの部分でしょうか? 線を引きなさい。
*線を引いたところを発表させる。
■正解は「開国し」の部分。長州藩は攘夷を主張していた。
【説明と板書】1863年5月、下関戦争(長州藩VS英・米・仏・蘭)
*下関戦争についてかんたんに説明する。
このとき、高杉晋作は西洋との戦いには反対だったが、こうなった以上やるだけのことはやろうと考え、藩主に新しい軍隊をつくる提案をしました。「奇兵隊」です。これは高杉晋作らしい新しい考えの軍隊でした。
この奇兵隊にはどんな特徴があったと思いますか? ●ヒントは松下村塾です。
*挙手指名で発表させる。
■正解は、武士だけでなく、身分にかかわらず参加できた。条件は「命がけで日本のために働く」ことだった。。
【板書】新しい軍隊「奇兵隊」
【説明】戦争の結果は長州藩の完璧な敗戦。→写真:占領された長州藩の砲台
日本は初めて、西洋軍隊の武力による上陸をゆるした。
【説明】講和会議の長州藩代表は、高杉晋作。通訳は伊藤博文。彦島の割譲要求を、神話から語り起こして断ったエピソードを語る。
4 大方針の②を検討する。
次に、②の( )に入った言葉を発表してください。
*列指名で発表させる。
■正解は、前が「幕府」、後ろが「天皇」
多くの維新の志士たちは、①の大目標を実現するには、「天皇中心の国」にしなければならないと考えました。武士の時代が700年、江戸幕府が250年続いてきたのに、武士達はどうしてこんな方針を立てたのでしょうか?
*時間があれば、ノートに書かせて発表させる。
【説明】日本が統一国家ではなく、諸藩に分裂した状態を変えるには、聖徳太子の大方針だった「天皇中心の国づくり」にもどるのがいちばんいい。鎌倉幕府・室町幕府・信長と秀吉・江戸幕府が、武力で朝廷を滅ぼさなかったことが生きてきた。考えてみると、日本は聖徳太子からずっと天皇を中心にやってきた。武家が幕府を開いて政治の実権を行使したのは、天皇から征夷大将軍の地位を与えられたからでした。日本が植民地にされるかもしれないという危機に際して、天皇中心の統一国家になればよいという方針に、日本中の武士たちが賛成したのです(もちろん幕府側の心ある武士たちも)。
しかし、方針②の中で、ぜったいに意見が一致しない部分があった。
そこに線を引きなさい。
*発表させ、正解に挙手させる。
■正解は「幕府を倒し」の部分。
【説明】1864年、第一次長州征伐。幕府軍・薩摩藩など15000人VS長州藩3000人。戦わずして降参。「幕府を倒す」という方針をやめた。
4 功山寺決起
『高杉は、日本を変えるためには、まず長州藩を変え、あくまで幕府を倒すしかないと考えました。高杉は奇兵隊に、藩を変える戦いに立ち上がることをよびかけました。しかし、長州藩3000の正規軍と戦おうとする者はほとんどいなかった。集まった兵はわずか80人(その一人が若き日の伊藤博文)。大砲わずか一台。3000対80の戦いである。
晋作はどうしたでしょうか? A:戦った B:やめた
*挙手で意見分布をとり板書する。
■正解はA.
【説明】高杉はわずか80人で決起した。決起は成功し、長州藩は、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)たちをリーダーにして、再び「大方針②」にもどった。その2年後、長州藩は幕府による第二次長州征伐に勝利した。歴史を変えた勇気ある決起だった。
【板書】1867年、高杉晋作死す。29歳。
『幕府との戦いに勝って半年後でした。新しい日本は1年後に迫っていました』
コメント