鎖国の授業1「ヨーロッパとの出会い」
●この授業は、当時の為政者の立場から、鎖国の必然性を追いかけてみた授業です。鎖国とはきわめて切迫した日本の安全保障問題であったことがわかります。今つくるとしたら、日本人奴隷の流出問題にも触れたいと考えています。なお、この授業記録は拙著『学校でまなびたい歴史』に載せた4本目の授業です。
◆授業づくりの話◆
わが国は16世紀の半ば頃初めてヨーロッパと出会った。大航海時代のヨーロッパである。年表には次のようにある。
1543(天文12)年 ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。
1549(天文18)年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の布教を始めた。
彼らは、室町幕府の全国統治が崩れ、各地に小国が割拠して小競り合いをくり返していた戦国時代の日本にやってきたのである。桶狭間の合戦は1560(永禄3)年だから、いままさに織田信長の天下布武への戦いが始まろうするときであった。
スペインとポルトガルは、世界中の珍しい物産や黄金を求めて世界征服の途上にあった。両国は東西から半周して地球上を半分に分け、それぞれを互いの支配領域とした。日本列島はその境界線上にあったのである。
彼らのむきだしの物欲はアフリカや南アメリカを征服して横暴と残虐をきわめた。それはまた彼らの聖なる使命の実践でもあった。彼らの世界進出のもう一つの目的が、邪悪な異教徒をキリスト教に改宗させ天国に導くことにあったからである。宗教改革との戦いに燃えるイエズス会の情熱が大洋を越えて行ったのである。
日本の鍛冶職人たちは、舶来した鉄砲の実物を見ただけで、すぐに同じ物を作ってしまった。大量に国産された鉄砲は戦国の世を終わらせるのに有効だったようだ。海軍力は持たなかったが、わが国の陸戦力はスペイン(ポルトガル)を凌駕していたといわれる。こうして、彼らにとって日本は侵略ではなく交易と布教の対象国となった。貿易船に乗って日本にやってきたザビエルを始めとする宣教師たちは、神の手先であると同時に優れた商社マンでもあった。
信長や秀吉だけでなく、当時の戦国大名はみなヨーロッパの文物にたいへん興味を示した。交易は相互に有益であると考えていたのである。また、キリスト教の布教についてもまことに寛容であり、ほとんどの戦国大名は自由な布教を許していた。
戦国時代のヨーロッパとの出会いは、異質の文明との出会いという意味で古代日本の経験と似ている。が、信長にも秀吉にも、古代の指導者たちにあった外来文明へのコンプレックスは見られない。異質であるだけで、向こうが優れているという意識はまったくなかった。お互いに、珍らしい物を交換し合えばよいと考えられていただけである。ここでも、「外来文化と伝統文化の統合」という異文化交流の大原則に従えばよいはずだった。
しかし、一つだけその大方針に収まらない異質な文化があった。それがキリスト教である。キリスト教は、自分が日本に受け入れられるだけでなく、すでにある日本の神仏を滅ぼさねばやまない絶対正義の宗教であった。その「正義」を実現しようとしたのが、キリスト教に改宗した戦国大名や武将たちである。
このとき、わが国は歴史上初めて真に「異質な他者」と出会っていたのである。そして、それは、日本に新しい秩序と平和を創造しようとしていた人々にとって克服すべき巨大な課題となったのである。
この大問題にわが国の先人はどう対処したのか。それを学ぶことが、鎖国を知る第一歩であり、江戸時代を知るための入り口でもある。
授業は2時間の構成である。
1時間目は授業「ヨーロッパとの出会い・・・秀吉VSフェリペ二世」である。ここでは、全国統治を実現した豊臣秀吉がこのキリスト教問題にどう対処したのかを考える。幻の「信仰の自由令」と「バテレン追放令」という2つの法令を教材に、秀吉の決断と迷いを考えていく。日本にとってのキリスト教の意味がしだいに明らかになり、秀吉とフェリペ二世との対決の様相をかいま見る。
二時間目は、授業「ヨーロッパとどうつきあうべきか?」である。子供たちは江戸幕府の統治者の立場に立ち、徳川家康や家光と同じ情報を得た上で、日本の新しい平和秩序を打ち立てるためにどうすべきかを考える。日本は今後もヨーロッパと交際を続けるべきか否か。もし続けるのなら、そこにどんなルールをつくるべきなのか。子供たちは、それを考え話し合いながら、江戸幕府のいわゆる「鎖国」政策とほぼ同様の政策に到達する。
六年生のエキサイティングな話し合いを味わっていただきたい。「たぶん私もそうしたにちがいない」と、多くの読者が徳川の統治に共感されることだろう。
市村佑一・大石慎三郎『鎖国・ゆるやかな情報革命』(講談社親書)は、江戸時代についてこう書いている。
「一つの巨大民族が、約二百六十年もの間全く戦争をせず、平和を楽しみ、その間に文化と富を蓄積していった 歴史は、世界にも例を見ない。」
この江戸時代像が歴史の常識である。二百数十年の平和と安定、自給自足による国家としての自立、民衆の生活文化の豊かさなどは、まぎれもなく江戸幕府の統治が実現したことなのである。その史実を、まず共感的に理解することが歴史学習の基礎基本である。
◆授業の実際◆
1 ヨーロッパとの出会い
これは、信長や秀吉の時代のある港町の様子です。
子供たちはすでに、鉄砲伝来と3人の武将「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の学習を終えている。鉄砲を伝えたのがポルトガルの船であったこと、信長・秀吉・家康が、鉄砲だけでなく様々な西洋の文物にも興味を示し、喜んで使っていたことも学んでいる。
このように西洋との出会いはすでに学んでいるのだが、最もかんじんな部分が欠けている。この絵は、それを子供に見つけてもらうために見せるのである。
この絵を見て、子供たちは、大きな貿易船が日本の港に着いたこと、その船は「たぶん」ポルトガルかスペインであること、西洋人(白人)やアフリカ人(黒人)が洋服を着て帽子をかぶっていることなどを指摘する。さらに、誰かがこんな発見をしてくれる。
「教会があります。十字架がついているから」
これが今回の学習の入り口である。
これまで国内の戦乱と天下統一の歩みを勉強してきましたが、今日はこの時代の外国との関係を考えることにします。
『この時代はおよそ千年前の聖徳太子の時代と似ているところがあります。それはどんなことだったでしょう?』
「聖徳太子の時は中国だったけど、こんどはポルトガルとかスペインのような遠い国の文化が日本に入ってきました」
そうですね。戦国時代は大昔に隋や唐の文化に出会ったように、スペインやポルトガルというヨーロッパの文化と出会った時代でした。彼らは地球の裏側からわざわざ日本までやって来ました。彼らが伝えた鉄砲は日本の歴史を大きく動かしました。鉄砲以外にも、信長や家康が持っていた西洋風の鎧、地球儀、世界地図、望遠鏡などの写真を見せましたが、今日はそういう物や技術の話ではありません。
『さっき絵の中に見つけた教会の話です。教会とは何ですか?』
「教会は、キリスト教の神さまだと思います」
「キリスト教はヨーロッパの神さまです」
「聖徳太子の時は仏教でしたが、こんどはキリスト教が入ってきました」
多くの子供の目がこの発言で「ああそうか」というように光る。
そうです。聖徳太子の時は仏教という外国の神さまが伝えられました。それから千年もたって、今度はキリスト教という外国の神さまが入ってきたのです。これが今日一時間目の大問題になります。主人公はこの人です。
豊臣秀吉は信長の後を受けついで日本を統一した人でした。秀吉は低い身分から出て、知恵と工夫で日本のトップにまで上りつめた人でしたね。検地や刀狩りなど新しい日本の平和な秩序をつくり出すために、真剣に頭を使った人でした。
たいへん頭の良い工夫と努力の人でしたが、秀吉は、大変難しい問題に直面して一生悩みぬいた人でした。それは、聖徳太子が悩んだ問題とよく似ていました。ズバリ書くとこうなります。
ヨーロッパの国々(スペイン・ポルトガルなど)とどうつきあっていくのか?
この問題を、秀吉さんと一緒に考える。それが今日の勉強です。
2 秀吉の考えたルール
『豊臣秀吉の問題は次の二点でした』
1 西洋の産物・技術・・・貿易問題
2 キリスト教・・・・・・宗教問題
豊臣秀吉は①の貿易はぜひ続けたいと考えました。西洋の国々と貿易して、日本にはないめずらしいもの、美しい物、役に立つ物などを買い、彼らのほしがる金や銀、日本らしい品物を売り、お互いの利益になるような交際を進めようとしました。
②のキリスト教についても、秀吉はたいへん好意的でした。身近なところにも宣教師がいてよく会ってもいました。奥さんの一人は西洋風のマントや敷物などが気に入っていたようです。彼女はひょっとするとキリスト教の信者だったかもしれません。
そのくらいキリスト教は秀吉の周囲にも広まっていました。九州の大名や秀吉の部下の武将の中にも、キリスト教の信者になる人がいました。民衆の中にも信者が増えてきました。当時数十万人ものキリスト教の信者がいたといわれているほどです。
日本人は新しいもの、外国から入ってくる文化を差別しません。偏見を持たないで広い心で受け入れようとします。そういう伝統がこの頃の日本にはもう根付いていたのですね。それはまさに聖徳太子が願ったことでした。
秀吉もまた「いいものはいい」と、それが外国のものであってもどんどん受け入れればいいと考えていたのです。
ところが、ここに一つ問題が起きました。
キリスト教を信じるようになった大名のことをキリシタン大名といいます。そのキリシタン大名が自分の領国の民衆全員に、「キリスト教を信じなさい」と強制するようになったのです。それだけでなく領内にある神社や寺をこわす動きも出てきました。
彼らはその地域のリーダーとして、そうするのが正しいことだと考えてやっているのですが、日本全体のリーダーである秀吉は「これはちょっとまずいことになった」と受けとめました。秀吉の気持ちを想像してみると次のようになります。
民衆が自分からキリスト教信者になるのはいい。大名がそうなるのもいい。自分で選んだことだから。
しかし、大名がキリシタンになったからといって、その家来やその国に住む民衆全員がキリスト教徒にならなければいけないということはない。そんな強制を許していたら、その地域から神社もお寺も消えてしまうだろう。日本人が古くから信じてきた神さまや仏さまが滅ぼされてしまうだろう。
そういうやり方は日本の伝統にはなかったことだ。それだけはやめさせよう。
これは想像ですが、この想像には理由があります。一五八七年六月、秀吉はキリスト教についてのある法律を作ったことがわかっているからです。その法律にはこう書かれていました。
・キリスト教を信じるか信じないかは個人の自由とする。
・キリシタン大名が、領地の人々にキリシタンになることを強制してはならない。
『このルール、どう思いますか?』と問うと、子供たちは「いいと思う」「公平な感じがする」「聖徳太子のやり方と似ている」と言った。
そうだね。これは、仏さまが入ってきたときの聖徳太子の方針と似ています。
キリスト教の神さまも日本という大きな樹のたくさんある枝の一つとして取り入れていこうとしたのです。しかし、大名が民衆に強制するのはやめさせる。そうじゃないと、樹の幹がキリスト教になってしまう。そうなってはもう日本とはいえない。伝統の神さまや仏さまは、これからも大事にまつらなければいけない。そういう法律です。
秀吉はこの法律を、部下のキリシタン大名高山右近と宣教師コエリョに見せて、意見を求めました。彼らがどう答えるか興味があったようです。
『二人はどう答えたでしょう?』
挙手で子供たちの意見分布を調べると、次のようになった。
・この法律に賛成したと思う・・・3名
・この法律に反対したと思う・・・33名
なんと、ルールとしてはなかなかいいと考えていた子供たちのほとんどが、そうは問屋が卸さないだろうという予想を立てたのである。この時期になると、子供たちも当事者の状況を推理したり、同じ状況下でも立場が違えば判断も変わることなどを理解するようになってきているのだ。
正解は「反対した」です。2人とも「この法律には従えない」と、きっぱり言い切ったらしいのです。
『なぜだと思いますか?』
この問いに数名の手がさっと挙がった。先ほどの予想が、単なるカンだけの裏読みではなかったことがわかる。
「高山やコエリョは、自分の神さまが一番いいと思っていたので、日本人みんなに信じてもらいたかったのだと思う。いいと信じてるから広めたかった」
「(日本の)神さまや仏さまも人を救ってくれるかも知れないけど、高山やコエリョはキリスト教の神さまのほうがもっとよく人を救ってくれると信じているからだと思います」
「大名はその国のリーダーだから、大名が信じていれば、いいことを人々にも信じさせたいと思う。だから強制してもいいと思った」
子供たちはまさに一神教の思考を再現しているのである。
『よく考えたね。その通りです。しかし、実はここが聖徳太子の時の仏教伝来の話と違って、キリスト教問題のいちばんの難問になったのです』
日本人はもともと神さまはたくさんいていいという考えだった。だから日本の神さまもいい、仏さまもいい。いい神さまはたくさんいるんだ。人それぞれで信じたい神さまがいればいいということだった。仏さまももとはは外国の神さまだったけれど、そういう考えで受け入れた。それでこの時代まで神も仏も仲よくやってきた。どの村にもお寺と神社があった。両方が同じ家にまつられていた。
でもキリスト教は違ったんですね。
いい神さまはキリスト教の神さま一つだけだ。それ以外はみんな邪悪な神さまだという考えだった。日本の神さまも仏さまも悪い神さまだから、そんなものを信じている愚かな民衆には無理矢理にでも教えてやらなくてはいけない。信じたい人が信じればいいというのではだめで、みんながキリスト教を信じなくちゃいけない。そういう考えだ。
いまみなさんが言ってくれたとおりで、これが高山右近と宣教師コエリョが、秀吉のルールに反対した理由でした。
ただし、これは当時のキリスト教の話である。いまのキリスト教は神社を壊したりはしない平和な宗教だということをここで断らなければいけない。子供たちの中には敬虔なクリスチャンもいるからである。そういう子供に肩身の狭い思いをさせてはいけない。
『秀吉は二人に反対されたルールをどうしたでしょう?』
「怒ってこの法律はやめた」
「高山右近を殺してしまった」
「キリスト教を禁止した」など、両者の考え方の決定的な違いに気づいた発言が続いた。が、次のような意見もあった。
「反対されても、自分の考えは正しいと思って実行した。だから二人にとくに罰は与えなかったと思う」
「キリスト教も枝の一つとして繁らせるほうがいいと考えていたのだから、法律をそのまま実行したと思う」
何人かの子供たちは、なんとか折り合いがつけられないものかと考えていたのである。
3 秀吉VSフェリペ二世
歴史の事実は「秀吉はこの法律をやめてしまった」が正解です。
これは手強い、考え方がまったくちがうと考えたのです。主人である秀吉に逆らってまであれほどの主張をするとは、キリスト教を信じる者たちはなみなみならぬ覚悟であるようだ。あんなのんびりしたルールでは神も仏もいずれは滅ぼされてしまうにちがいない。そう思ったらしいのです。
怒った秀吉は、高山右近の領地を取り上げてしまいました。そして、あの法律をやめて次のように新しく書き直しました。これが有名なバテレン追放令です。
・日本は神と仏の国である。キリスト教こそ邪悪な宗教である。
・大名は、人々にキリスト教を強制したり、神社や寺を壊したりしてはいけない。
・キリスト教の宣教師(バテレン)は日本から追放する。
こっちは「あれもこれも、いいものはいいでやろう」と言っているのに、むこうは「いや、キリスト教だけが正しいのだから、日本の神も仏も滅ぼすぞ」と言う。これでは、キリスト教と日本の神様との両立はできない。秀吉はそう覚悟を決めたのです。
バテレン追放令が出されたのは、天正十五年(一五八七年)六月十九日です。
最初の法律案を二人に見せた日の翌日だったそうです。これは秀吉の頭の良さと決断の早さを伝えるエピソードだと思います。
ところが、この法律はきちんと実行されず、あいまいにされていきました。
そのわけを考えるために、ここでもう一人の人物に登場してもらいます。
16世紀は、スペイン人やポルトガル人が世界の海に乗り出していった時代です。
地球は丸いという発見がありました。大西洋をどこまでも西に行けばインドにも行けるし、また元にもどっても来られるというアイディアが生まれました。彼らは、アメリカ大陸を発見して、鉄砲の力でそこにもとからあった国々を滅ぼしました。そこに住んでいた人々を支配し、金銀財宝やめずらしい産物をうばいました。アフリカの黒人は捕らえられて奴隷に売られました。最初に見せた絵に出てきた黒人は、そうやって売られた黒人奴隷です。いまアメリカにいる黒人は、この頃アフリカから売られていった奴隷たちの子孫なのです。そのようにして、スペインやポルトガルの領地が世界中に広がりました。これはその領土を表した地図です。フェリペ二世は、秀吉と同じ時代にスペインとポルトガル両方の王様だった人なのです。
『ご感想をどうぞ』
「スペインやポルトガルはすごい国だ」
「ヨーロッパの科学は進んでいる」
「世界中に領地があるのでおどろいた」
そうです、フェリペ二世の領土をたどれば世界一周できると言われていました。
「インカ帝国を滅ぼしたり、黒人を奴隷にしたり、ひどいことをする国だ」
この意見には「同じです!」という賛同の声が教室に響いた。
「このころは力の強い国が弱い国を征服してもしかたがない時代だったと思う。日本の戦国時代も国の中では同じだった」
多数が一つの方向に走ると、こういうさめた意見が出てくる。これも歴史の学習の積み重ねてきた成果の一つである。さらにこんな意見もあった。
「授業の最初に見たあの絵は平和な感じがしたので、先生のいまの話はあの絵のイメージとはちがうなと思いました」
なるほど。実に、あの南蛮屏風絵は新奇な人々との出会いの驚きや好奇心にあふれている。西洋人への警戒心などまったく感じられない。これも貴重な感想である。が、話を先に進めよう。
秀吉が相手にしていたのはこの当時世界最強の国でした。その海軍は無敵艦隊とよばれて、艦隊はたくさんの大砲も持っていました。その軍事力があれば世界征服も夢ではないと考えていたようです。
そのスペインが秀吉を困らせようとして、「おまえが宣教師を追放するというのなら、われわれはおまえたちとの貿易を止めるぞ」と、おどしてきたのです。
秀吉は貿易はぜひとも続けたかったのですね。それで、宣教師を追放する法律を厳しくは実行しなかったのです。こうして、キリスト教の布教はその後も続けられていきました。
平和に貿易をしてお互いに豊かになりたい。しかしキリスト教は入れたくない。こういう悩みを秀吉は悩んだのです。
こんなこともありました。スペイン人の船乗りから恐るべき話を聴いたのです。
「スペインはまずキリスト教を広めてその国に信者を増やす。同じ神を信じる者は仲間となって団結するからだ。そうやって味方をふやしてから、最後は軍隊を送り込んで、その国を支配してしまうのだ。日本もいずれはそうなるだろう」
この情報は今から見ればアメリカやアフリカの歴史にぴったり合っています。
秀吉はこの話にはたいへんな危機感を持って、スペインへのみせしめを実行しました。キリシタン二十六人を長崎で死刑にしたのです。
また、最近このころの日本にいた宣教師がフェリペ二世に宛てた手紙が見つかったそうです。その手紙にはこんなことが書いてありました。
「スペイン艦隊の基地を天草に置く。日本の海軍は弱い。九州と四国を占領することはかんたんであろう」
スペインが日本征服を計画していたという情報です。
『この計画はどうなったでしょう?』
「戦争が起きて日本が勝った。日本はアフリカと違って鉄砲もたくさんあるし、武士は戦争が強いから負けないと思う」
「日本のキリシタンから情報を得て、海軍を強くして勝った。」
「これは元が攻めてきたときと同じだから、みんなで団結して戦って、スペインを追い払ったと思う。」
『実はこの戦争は起きませんでした。スペイン艦隊は攻めてこなかったからです。』
この場面でちょっと忘れがたいハプニングが起こった。
「スペインの王様が死んじゃったんだ!」という子供の軽口が飛んだのである。これは厳密に言えばルール違反の発言だが、私は思わず『その通り!』と応えていた。
まさかという感じで子供たちも反応した。
「ええー?」
『それだけではありません。その五日後に秀吉も亡くなりました』
今度は教室中がふるえるような声だった。
「ええー!」
両方のトップがほとんどいっしょに死んでしまって今日の話は一段落です。
つけ加えると、当時の日本は鉄砲を国産できるようになっていて、鉄砲の数ではスペインを上回っていたらしいのです。無敵艦隊が来なかったのは、日本の軍事力が強く、アフリカやアメリカのようにはいかないと考えたためだったのでしょう。
当時世界を支配していたヨーロッパ人(スペインやポルトガル)とどうつきあうかという大問題は、こうして次のリーダーである徳川家康にバトンタッチされました。
次の時間は、秀吉のバトンを受けついだ徳川幕府がこの大問題にどう取り組んだかを、みんなで考えることにしましょう。
鎖国の授業2「ヨーロッパとどうつきあうか」
◆授業の実際◆
1 ヨーロッパとつきあうためのルール
これは徳川家康の肖像画です。今からちょうど400年前、1603年に江戸幕府ができました。関ヶ原の戦いで豊臣方に勝利した徳川家康が、全国の諸大名を一つにまとめて日本政府をつくったのです。織田信長、豊臣秀吉と引き継がれた天下統一の大事業が、ここにようやく実りました。武士の政府は鎌倉・室町・安土・桃山に次いでこの江戸が5つ目になります。
家康もまた源頼朝以来の武士の政府の伝統を守り、朝廷から征夷大将軍に任命されて、正式に日本の政治のリーダーになりました。それが、1603年2月のことです。
朝廷(天皇)が日本をまとめる中心であり、武士はその命令を受けて政治を進めるという国のかたちの伝統が受けつがれたのです。家康が江戸幕府を開き、それを受けついだ3代将軍家光が江戸幕府を完成させたと言われています。
さて、今日は、この江戸幕府が、家康から家光の時代にかけて、ヨーロッパとのつきあい方をどうしていったかという問題を考えましょう。
『この時間の学習課題はこうです』
ヨーロッパの国とどうつきあっていくのか? そのためのルールを考えよう。
『この問題を考えるために、まず秀吉が知らなかった3つの新しい情報を教えておきます』
1 新しく力をつけてきたオランダという国から手紙が届いた
「オランダもスペインと同じようにヨーロッパのキリスト教の国ですが、私たちは、
日本ではキリスト教を広める活動はやりません。
私たちの願いは、貿易によって日本とオランダがともに豊かになることです。これ
からは、スペインとは手を切って、オランダと貿易しましょう」
2 キリシタン大名の危険
スペインと貿易している九州などの大名が、貿易の利益で力をつけてきた。
もし彼らが幕府よりも強くなると、反乱が起き、天下は再び乱れるかもしれない。
3 一六三八年に島原の乱が起きた
これは、キリシタンを含む四万人の民衆や浪人たちの反乱であった。死んでも神
の国へ行けると信じるキリシタンたちの力は強く、反乱をしずめるのに一年も
かかってしまった。
『この新しい三つの情報をよく読んで、みなさんが徳川幕府のリーダーだったら、どんなルールをうち立てるかを考えてみてください? 貿易とキリスト教の二つの面から、ヨーロッパとつき合うためのルール考えてノートに書きましょう』
ここで一人が質問に立った。
「先生、踏み絵ってこのころのことですか?」
『そうですが、今日の問題は歴史の事実を当てるクイズではありません。あなたが、天下を統一したリーダーだったらどうするかを考えてみてください。考える材料は、前の時間の秀吉の勉強と、ここに書いた三つの新しい情報です。』
2 ルールを考えた子供たち
『ノートに書いたことを発表しましょう』
「これからはキリスト教と関係のない国とだけ貿易をしていけばいい」
『これまで通り、中国や朝鮮とだけつきあうという事かな?』
「ヨーロッパでも、オランダはキリスト教を布教しないからいいと思う」
「大名の貿易には、物の制限をすればいいと思う」
『たとえば?』
「たとえば外国製の武器など危険な物は日本に入れさせないようにする」
「他の大名は幕府の許しを得ないで貿易してはいけないようにする。またヨーロッパの国も将軍の許しを得ないで他の大名と貿易してはいけないことにする。そうすれば力をつけて戦争を起こす大名はいなくなり、平和が守れると思う」
「キリスト教を広めて日本を乗っ取ろうとする国との貿易はやめたほうがいい」
「スペインはあまりつきあいすぎると危険が多いから、一ヶ月に一回とか、貿易を制限したらいい」
「キリシタンは、スペインとかキリスト教の国に追放したほうがいい」
「ぼくは追放ではなく両方ありにする。だけど、これ以上キリスト教を広めるのはやめさせて、秀吉の作った法律をまたやるようにすればいい」
「つけたすんですけど、こんど島原の乱のような大反乱が起きたら、キリスト教を禁止すればいい」
「似てるんだけど、そうなったらきつい罰を与えて、二度と起きないようにする」
ご覧のように、貿易問題とキリスト教問題が、前の三つの情報とからませながらいっぺんに出てくる。言いたいことがある子供たちがたくさんいて、とにかく書いたことは発言したいのである。その意欲を大切にしすぎると、雑然とした言い合いが続くことになる。主な論点が出そろったところで、教師が論点を整理していくのである。
『キリスト教は入れないという意見が多いんですが、みなそうですか?』
「ぼくは、反対です。やっぱりキリスト教も含めてヨーロッパとのつきあいは深めていった方がいいと思う。日本を発展させるには、外国とのつきあいは大事だから。聖徳太子もそう考えた。」
「でも、世界を支配しようとしたりする国は危険だと思う」
こうして、最初の意見の対立が鮮明になった。ここから議論が始まる。
「だから、つきあいながら、軍隊はいつも強くしておいて備えておくようにすればいいと思う。もしそういうふうなら戦うようにすればいい」
「キリスト教は信じてもいいと思う。ただ、反乱を起こすことはダメにする」
この授業では必ず最後まで「できるだけ寛容に」というグループが成立する。主張の内容を見ると、それが日本の安全保障問題であることは理解している。それでも、なるべく自由にしておいて、しかも平和な秩序は守りたいのである。
「そういうやさしい気持ちはいいんだけど、ぼくは前の時間のスペインの計画がすごく気になっていて、あのときあの王様(フェリペ二世)が死ななかったら、戦争になっていたかも知れないじゃないですか。だから、キリスト教にはもっと警戒しておいた方がいいと思う」
「ぼくも似ていて、いったんはやさしい気持ちでキリスト教を受け入れても、また反乱が起きてしまうと、殺し合いになったりして、もっとかわいそうだから、最初からキリスト教を受け入れない方が、この場合は日本にとっていいと思います」
寛容派を「やさしい気持ち」と呼んだのは絶妙だった。甘くしておいてあとで悲惨なことになるよりも、始めから厳しくした方がいいのだ。そのほうが平和と秩序が守れるというわけである。
この対立は、秩序を守るためにどうするかという話だ。小は学級や学校の秩序から、大は国家・国際社会の秩序まで、ここで行われている議論はどこにでもある。
が、子供たちからは、こんなふうに悩んでいるのはそもそも「キリスト教の側が寛容ではないからだ」という反論はついに出てこなかった。やはりこの構図は難しいのだろう。
「それに対して、キリスト教を受け入れておけば、その人達を通して外国の情報とかも知れるから、役に立つと思います。少しはキリシタンを残しておいて、スペインなどの情報が入って来るようにしておく」
「ヨーロッパの情報って何ですか?」
「それは、攻めて来そうだとか、いつごろ来るとかそういうことです」
「思うんですけど、新しい情報の①にあることで、オランダとなら貿易だけできるし、情報も入って来るんじゃないですか?」
「(ああ、うんうん)それはわかりました」
『かなり対立が見えてきましたね。ここで、まずキリスト教について、みんなの意見を調べておきましょう』
二つのの選択肢に手を挙げさせて意見の分布を確かめてみると、次ようになった。
・キリスト教を受け入れてもいい(ただし神さまも仏さまも守る) 九名
・キリスト教は絶対ダメ(現実はそんなに甘くない) 二十七名
『かなり意見の対立がはっきりしたね。友達がどちらの立場かもわかりました』
「ぼくはやっぱりキリスト教はダメだと思います。スペインは信用できないし、ダブルで来られたら、せっかくまとまった江戸幕府が危なくなるんじゃないかと思います」
「ダブルって、どういうことですか?」
「軍隊が外から攻めて来て、国の中からも反乱が起きるということです。それでとにかく島原の乱も起きたし、危険があると分かってるんだから、そうなったらせっかく平和になってまとまった日本がまたバラバラになるかも知れないから、キリスト教はダメだと思います。」
この意見がいちばん説得力があったようだが、子供は一度決めた自分の考えをなかなか変えようとはしない。
「反乱が起こるかも知れないけど、それにはしっかり備えておけばいい」
『お互いに説得されそうもないね。でも、スペインとキリスト教が幕府にとって危険だという考えは同じようです。危険だけれどなるべく自由にしておいて、いざというときはビシッと守ればいいんだという意見と、危険がわかっているなら始めからそれを避けた方がいい、厳しくした方がいいという意見の対立ですね。では、次に貿易について考えていきましょう』
・ヨーロッパとの貿易はやめる 2名
・ヨーロッパとの貿易は続ける 34名
まず少数派の意見を聞こう。二人は次のように話した。
「キリスト教を入れても、貿易が原因で戦争になったり問題が起きたりするかも知れないから、もう日本は日本だけでやりたい」
「貿易と一緒にキリスト教が入ってきたんだから、両方やめた方がいい」
この二人は、オランダの登場という新しい条件があまり視野に入っていないのかもしれない。が、ごちゃごちゃするくらいなら「もう日本は日本だけでやりたい」という考えもよくわかる。戦国時代の学習で、周囲が合戦の史実を楽しんでいるなか、「どうして日本の中でそんなに争うのか」とつらい思いをしていた子供である。「戦わなければ天下を統一できない」「日本をもう一度まとめるためだ」という意見も耳に入らない。ある意味で戦争と聞いただけで思考停止になるのである。人間が血を流して戦い続けてきた事実を、その意味や価値も含めて受け入れたくないのである。鉄砲を持ってきたような国とつきあう必要はないという思いもあったようだ。学級という集団にとっては、貴重な、たった二名の奮闘であった。
『では、多数派の意見をどうぞ』
「貿易をして、いろいろ、外国の物とかをもらわなければ、日本は進歩しないと思う」
「一つにまとまった日本をもっとこれから進歩させるために、貿易は必要だから、やっていったほうがいい」
「聖徳太子の時と同じで、新しい文化を取り入れていかなければ日本はずっと進歩しないと思うから、取り入れた方がいい」
「貿易で反乱が起きたりする例はないと思うので、貿易は続けた方がいいし、オランダはそうするといってるんだから、オランダと貿易すればいいんだと思います」
ここで、貿易廃止派の一人が反論に立った。
「別にヨーロッパとつきあわなくても、中国や朝鮮と貿易をすればいいと思います」
「それだと今まで通りで、今ほしいのはヨーロッパの文化とか物とかなんだから、それは意味がないと思います。」
実は貿易推進論者のいう「日本の進歩」は、この時代の対ヨーロッパ貿易ではあまり重要な論点とは思われない。産業革命以前のヨーロッパなのである。それよりもむしろ、少し前のやりとりにあった情報の窓を開けておくという意味の方が大きかったのだろう。
ここで予想外の意見が出てくる。オランダだけに限らず、複数の国とつき合った方がいいという主張である。
「ぼくはみんなと少し違うんだけど、オランダだけじゃない方がいいと思う。スペインじゃダメだけど、オランダみたいにキリスト教を広めないヨーロッパの国があったら、その国とも貿易した方がいいと思う」
その理由は「どちらかの国ともめたときに、もう一つの国と組めるようにする」「貿易の利益も大きくなる」という二点だった。
これは教師の予想を超えた意見だった。イギリスの出島とオランダの出島の両方が並立している幻の風景が脳裏をよぎった。当時の状況を考えるとたぶんそれはありえないことだったろう。いやもしそんなことになれば、江戸の長い平和も幕末まではもたなかったにちがいない。オランダ以外にどんな国があり得たかはわからない。そういう意味で具体性のない提案だったので、他の級友にはほとんど理解されなかったが、情報の窓を複数にしておくというまことに戦略的な発想であった。
『では、最後に、大名の貿易は幕府の許しを得て、というのと、大名の貿易には物の制限をする、という意見があったけど、これはどうしてかな?』
「だから、九州の大名とかが貿易で力をつけるということは、またそれが反乱とか起こして戦国時代みたいになるかもしれないじゃないですか。それを防ぐということです」
「江戸の近くに港を作って、そこでだけ貿易をするようにして、他の大名には貿易をさせなければいいと思います」
『なるほどねえ。日本をまとめている江戸幕府だけが貿易するようにするという考えですね。そのほうが平和が守れるというわけだね』
こんどは江戸湾に出現した幻の出島に驚かされた。だが、これをほめるのは最後のまとめの段階までとっておくことにしよう。
3 江戸幕府がつくったルール
『はい、話し合いはここまでとしましょう。大変よく考えました。では、実際に江戸幕府が考えた〈ヨーロッパとつきあうためのルール〉を教えましょう』
1 日本は日本の神さまと仏さまの国でいい。キリスト教は禁止する。
2 ヨーロッパとの貿易はオランダに限る。(中国・朝鮮とはこれまで通り)
3 外国との貿易は徳川幕府だけが行う。他の大名が勝手に外国とつきあうこは禁止。
4 オランダとの貿易は九州の長崎に造る「出島」で、幕府だけが行う。
一条ずつ説明して子供たちの話し合いとつなげていった。長崎の出島は絵を見せて説明した。「江戸も近くに港を」と発言した子供は「私の考えと似ている」と満足そうにうなずいた。最後に次のような話で授業をしめくくることにしよう。
今日は、多くのみなさんが、江戸幕府のリーダーたちが実際につくった法律とほとんど同じルールを考えられたことにたいへんおどろきました。4の出島は「江戸の近くに港をつくって」という意見とそっくりですね。どちらも、江戸幕府だけが日本を代表して、オランダとの貿易をしっかり管理しようという考え方です。
日本人がヨーロッパと出会ってから、およそ百年。秀吉が悩み、家康と家光も悩んで、いろいろと問題もありましたが、結局こういうルールができたわけです。
このルールのことをふつう「鎖国」といいます。
長い鎖で日本列島を取り囲んで、国が閉じこもってしまったような言葉ですが、その真実は、みなさんが考えたとおり、ヨーロッパとつき合いながら、日本の安全と平和を守るためのルールだったのです。
江戸幕府だけが貿易していたので、日本全体としては、ヨーロッパとの貿易が国づくりに大きな影響を与えたわけではありません。が、その結果、自給自足の産業が発達して、日本全体としては、貿易に頼らなくても自力で豊かに生きていける国になりました。
島原の乱の後は、大きな戦争も反乱もなくなり、二百数十年もの長い平和が続きました。いろいろな産業も発達し、五年生の時に勉強した世界に誇れる日本の伝統工業は、ほとんどがこの時代に生まれたものです。民衆の生活も豊かになり、それまでは貴族や武士だけの楽しみだった文化や芸術が、庶民のものになったのも江戸時代なのです。
江戸時代の日本は、世界の歴史のなかでもほとんど見られない長い平和時代でした。それは江戸幕府の政治が賢かったためだといえるでしょう。
◆学習を終えて◆
■家康と家光のルールはとてもいい。とくに、オランダとつきあえるようになったのが良かった。キリスト教を広めない国だし、ヨーロッパの文化と情報もわかるから。
■このルールは良い考えだ。キリスト教は大きな反乱を起こした原因だから、禁止するのは同感だ。幕府だけが貿易するのもいい。やっぱり大名の力がバラバラになるとまた国が乱れるし、国をまとめる人たちが代表して貿易をするのがいいと思います。
■私が考えた「江戸の近くに港をつくろう」は、幕府の「長崎に出島を造る」という考えとにていた。オランダ人は出島だけに入れるということは、本当に貿易だけのおつきあいで、とてもわかりやすく、平和な方法だと思った。幕府の考えに大賛成です。
■このルールはいい。キリスト教を取り入れると、今まで信じていた仏さまを捨てなければいけないからだ。貿易も信用できる国とするのはいいことだ。
■キリスト教禁止はいい。日本は神さまと仏様の国だから、神さまは一つだなんていう宗教はなくていい。大名に貿易させないのも正解だ。せっかく江戸幕府でまとまったのに、またごちゃごちゃするからだ。
■どこの国も自分の国の発達を願っているから、こういういろいろな問題も起きるんだ。このルールがぜったいいいかどうかわからないけど、秀吉みたいにはっきりしないよりはぜんぜんいい。
■キリスト教がこの時代にこんなに力を持っていたなんてびっくりした。今は信じる神様はなんだっていいからです。国が乱れると平和になるまでとても長い時間がかかるんだと、改めて思いました。
■全体的に見てちょっときびしいなと思った。とくに踏み絵がざんこくすぎる。ぼくは、ほかの大名にも月に一回くらいは貿易させてやっても、平和は守れると思った。
■キリスト教は絶対ダメというのはやっぱりおかしい。信じたい神さまがキリストならそれでいいと思った。反乱を起こしたり、日本の神を攻撃したりしなければ、信じるのはいいと思った。
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