豊臣秀吉



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豊臣秀吉

1 全国平定まで

『まず、秀吉が全国を平定するまでのお話を読みます』


秀吉は太閤さんとよばれます。前の関白という意味で、例えば秀吉のやった検地は太閤検地といいいます。また太閤は、秀吉がそうであったように「低い身分から大いに出世した人」という意味でも使われます。伊藤博文は明治時代に「今太閤」よばれました。

 秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、百姓と伝えられる木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として生まれました。父の死後、母・なかは竹阿弥と再婚しましたが、秀吉は義父と折り合い悪く家を出ました。亡父の遺産の一部をもらい針売りなどしながら放浪したといいます。

 はじめ木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の家来の家来になりました。やがて、天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕えました。信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで気に入られ、しだいに織田家中で頭角をあらわしていきました。墨俣一夜城など秀吉が知恵と工夫で問題解決していく伝説はたくさんあります。

 信長に仕官して20年ほどで足軽が一国一城の主になり(長浜城)、羽柴秀吉と改名します。下克上の世とはいえ異例のスピード出世でした。

 秀吉は兵糧攻めを得意としました。あの本能寺の変のときも、秀吉は中国攻め(毛利攻め)を担当し、備中の高松城を水攻めにしている真っ最中でした。

そのとき、秀吉軍は一人のスパイをとらえます。その男は「信長が明智光秀に討たれた」という大ニュースを持っていました。秀吉は高松城攻めを直ちに休戦して、大軍を率いて京都まで駆け抜けました。秀吉は、誰よりも早く、山崎の合戦で信長のかたきを討ち、天下統一のバトンを受けつぎました。

 その後、柴田勝家や徳川家康などの大先輩を、倒したり手を打ったりしながら着々と地位を築いていきました。
1583年(47歳)秀吉は大阪城築城始めます。周囲4キロメートルの土地に、3年かかって五層八階建ての天守閣がそびえました。黄金の茶室。黄金のベッドルーム。黄金が秀吉の好みでした。

1585年 紀伊、四国(長宗我部)を平定して、(藤原氏と親子関係を結んで)正親町天皇から関白に任ぜられ「豊臣」の姓をいただきます。そして、1586年には太政大臣になりました。

 武家の棟梁として征夷大将軍になり幕府を開くのは、源氏でも平氏でもなかった秀吉には利口な選択とはいえなませんでした。いかにもにせ者くさいからです。それよりも、聖徳太子以来の天皇中心の国として、伝統ある朝廷を全国統治の政府として復活させ、天皇をお守りする道を選んだのです。

 こうして1587年、九州・関東・奥州も平定し、名実ともに関白・太政大臣豊臣秀吉の天下になりました。
 100年ぶりで日本の戦国時代が終わったのです。

2 秀吉の政治

『秀吉は、明確な国づくりの方針を持って、3つの政策を実行しました。それらの政策の目標は何だったかを考えながら整理していきましょう』

(1) 検地(太閤検地)

『まず、次の図を見ましょう』
検地

〈何をしているところですか?〉

●検地、太閤検地、「土地の広さを測っています」など。

*田畑の面積、土地の等級(上田・中田・下田)、収穫高を調べ、土地の所有者(=耕作者)を定めた。年貢は耕作者が米で納めること、村の有力者などが勝手に年貢を取ることを禁ずること、勝手に土地を移るのを禁ずることなど。

『検地の徹底よって、寺社、貴族は荘園を取り上げられ、農民は土地の所有権を認られました。農民はその国を治める大名に、公平に決められた年貢を治めることになり、大名は確実に年貢を徴収できて、領国の石高がわかるようになりました。太政大臣豊臣秀吉は、石高に応じて、大名に公平に義務を課すことができるようになりました。そして、単位の全国統一ができあがります。町、歩、米を量る升(一升)、六尺三寸(191cm)四方を一歩とし、300歩を一反とするなど。また、武士と百姓の身分がはっきり分かれ、身分の秩序が決まっていきました』

(2) 刀狩令(1588年)

『2つめは、刀狩令と呼ばれる次の命令です』


一、各地の百姓が、刀や短刀、弓、槍、鉄砲、その他の武器を持つことをきびしく禁止する。
 そのわけは、百姓が不必要な武器を持てば、年貢や税を出ししぶって一揆をくわだてたり、不法のふるまいをすると処罰される。すると、その田畑は耕されず、むだな土地になってしまうからである。
 そこで、大名や家臣はそのような武器を集めてさし出しなさい。
一、集めた刀や短刀はむだにしてはならないので、このたび、建てさせている京都の方広寺の大仏殿のためのクギやカスガイに使いなさい。そうすれば、現世はもちろん、あの世までも百姓は救われるだろう。
一、百姓は、農具を持って、ひたすら農業にうちこんでいれば、子孫の末まで長く安楽に暮らせるものである。だから、いまこうして、武器を取り上げるのは、百姓を愛すればこそのことなのである。
 世に不要な武器がなくなれば、国内は安らかになり、人々もまた幸せになるのである。


〈この命令はどんなことをを目的としていますか?〉

●武士以外は武器を持たないようにする。反乱が起きないようにする。戦争が起きないようにする。平和な世の中にする、など。

(3) 城割(しろわり)

『3つめは、城割といわれた政策です。これは、全国の大名の城を壊させたのです。それぞれの領国内の城が、3から4に減らされ、大名の防御能力は低くなりました』

〈さて、この3つの政策のねらいはどんなことだといえるでしょうか? 秀吉の日本のリーダーとしての国づくりの大方針を説明してください〉

●戦国時代を終わらせ平和な世の中をつくる。ばらばらになっていた日本を一つの国にまとめる。下克上を終わらせて、安定した秩序を生み出す。反乱や戦争をやめさせる、など。  

3 朝鮮出兵と秀吉の最期

『秀吉の政治のしめくくりは朝鮮出兵です』

*1592年(56歳) 文禄の役
 明を征服するために16万人を出兵しました。始めは快進撃、しだいに抵抗に遭い、明の軍隊が出てきた。
 李舜臣(りしゅんしん)の水軍に補給路を断たれ、明との和平交渉のために兵を退いた。

*1596年(60歳) 慶長の役
 同じく14万人を出兵。今度は半島南部から先に進めない。

『明を征服し、朝廷と秀吉も大陸に移り、新たな王朝を立てて、世界征服をたくらむスペイン・ポルトガルに対抗して、東アジアからインドまでを征服しようという壮大な構想でしたが、これは大失敗に終わりました』

【解説】
 朝鮮の役で秀吉を極悪人のように教える先生もいますが、まちがっていると思います。現在の感覚や道徳や法で過去を裁いてはいけません。
 東アジアの中華秩序の中で、蒙古民族(元)や満州族(清)が中華の天下を取ったことがあるように、秀吉は、当然一周辺民族としての日本民族にも新たな中華王朝を起こす(中原に鹿を追う)権利?があると考えたのかもしれません(これはネットで教えて頂いたのですが、いま、そのアドレスが見つかりません。浅学ゆえ間違っていたらご教示ください)。

『1598年に秀吉は死にました(62歳)。 臨終の遺言は「くれぐれも秀頼(6歳)のことおたのもうしましす」でした。しかし、豊臣家の治世は長く続くことがむずかしかったでしょう。現実に統治しているのが武家である限り、朝廷を政府と見なし続けるのはむずかしいからです。藤原氏や平氏の戦国時代版ですね。次に、新しい国づくりのバトンを引きついだのは、ご存じ徳川家康ですね』

【解説】秀吉のキリスト教政策は、鎖国との関連で、後で教える予定です。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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