後醍醐天皇と足利尊氏
●小学校学習指導要領の42人の人物の中には後醍醐天皇も、足利尊氏も楠木正成も新田義貞も出てきません。が、後醍醐天皇や楠木正成、足利尊氏とりあげておきたい人物でした。それに、南北朝時代の特異さも、天皇制度がとりえた一つの重要なエピソードとして教えておきたいことの一つです。
1 後醍醐天皇と鎌倉幕府の滅亡
【解説】この授業はお話し仕立てになっています。途中にクイズのような問いをはさみながら、物語を展開していくという組み立てです。
『元寇の後、鎌倉幕府の力がしだいに衰えていきました。御家人の不満は、元寇の恩賞が少なかったことと、北条氏が守護などの役職を独り占めにしていく傾向にありました。こうした中で、鎌倉幕府を倒そうという動きが出てきます』
主人公
〈鎌倉幕府を倒して新しい政治を始めようとした中心人物は次のどれだったでしょうか?〉
A 天皇 B 貴族 C 武士
『元寇から40年あまりたったころ、後醍醐天皇が即位されました。
後醍醐天皇は、貴族や武士が政治をする仕組みに強い疑問を持っていました。
日本は天皇中心の国である。
しかし、平安時代の中頃から鎌倉時代にかけてそれは形だけのものになってしまった。
天皇は神に祈り、貴族や武士に位をさずける役割になり、実際の政治は貴族(摂関政治)や上皇(院政)や幕府武士(幕府政治)が進めている。
そればかりか、最近では幕府が次の天皇を決めるほど力を持ってしまった』
【資料】天皇の系図1
*嵯峨天皇の後、皇統が二分し、この対立を幕府が調停したので、幕府が次の天皇を決めているような具合になった。
幕府は朝廷の力をさらに削ごうとして、これを四つの系統に分けることに成功した。
この段階が、後醍醐天皇の時代です。
このまま幕府の干渉を許せば、朝廷の権威はどんどん弱くなっていくことが考えられる。
あるべき国の姿ではない、と後醍醐天皇は考えた。
〈なぜそこまで幕府のさしずを受けなければならないのか。これはあるべき国のすがたではない。
私は「天皇中心に国がまとまる」だけでなく「天皇である私自身が政治を進める」ようにしたい〉
『後醍醐天皇は幕府に不満を持つ武士たちに「幕府を倒そう」とよびかけました』
*国のカタチを大昔の「天皇親政」にもどしたい。
陰謀がばれて失敗
『ところが、計画が事前に幕府の知るところとなり、後醍醐天皇も捕らえられてしまいます』
〈幕府は後醍醐天皇をどうしたでしょうか?〉
A 殺した B 島流しにした C 軽い罰を与えた
【解説】これまでの学習をもとにすると、「まさか天皇は死刑にはできないだろう」という考えが大勢を占めるようになります。
正解はBです。 隠岐に流してしまったのです。
『太平記』には
「家臣が天皇陛下を島流しにするなどという不思議な話は聞いたことがない。おそれおおく、なげかわしいことだ」と書いています。
ところがこの天皇は平安時代から鎌倉時代にかけての天皇とはちがって、ねばり強い意志と、新しいアイディアと、たぐいまれな勇気の持ち主でした。
一回失敗したくらいではこりないド根性の人だったのですね。
やがて後醍醐天皇は沖の島脱出して、再び鎌倉幕府に挑戦しました。
二度目には、北条氏の幕府に不満を持つ武士たちが多数天皇に従い戦うようになったのです。
*太平記の英雄達をかんたんに紹介する。楠木正成、北条尊氏、新田義貞
*『太平記』の千早城の戦いのエピソードを教える。
『そして、1333年、ついに鎌倉幕府が滅びました』
2 建武の新政と室町幕府
『こうして後醍醐天皇を中心に昔の「天皇親政」にもどされ、全国の武士も朝廷の下にしたがうかたちになりました。「建武の新政」です』
いつまで続いたのか?
〈後醍醐天皇の天皇中心の政治はどのくらい続いたでしょうか?〉
A 3年 B 33年 C 330年
*正解は Aです。
『後醍醐天皇の政治は武士たちの願いに答えられず、鎌倉幕府打倒のために戦った武士たちの間に不満が高まりました。わずか3年で天皇の政治は終わりを迎えました』
みなさんだったらどうしますか?
〈みなさんが武士のリーダーだったらどうしますか〉
A 最後まで後醍醐天皇を守って戦う。
B 後醍醐天皇を裏切り、武士の利益のために戦う。
【解説】この発問は、縄文時代を終わらせるか否か?という発問と似ています。史実にもとづいて考えるわけではありませんが、けっこうおもしろい意見が出ます。Aはある種の理想や理念や人としての心情を大切にする立場であり、Bはある意味の現実主義で、政治的な実効性や社会の秩序、などを大事にする立場です。歴史ではこの両方の立場がいつもせめぎあっていると思います。
Aの考えが、楠木正成と新田義貞でした。
Bの考えが、足利尊氏でした。
そして全国の武士たちの多くは新しいリーダー足利尊氏に味方して、後醍醐天皇を京都から追い出し、その政治を滅ぼしました。
●1338年 室町幕府(京都)
『足利尊氏は、朝廷(後醍醐天皇以外にも皇族はいらっしゃるので新しい天応が即します)から征夷大将軍に任じられて、京都の室町に新しい幕府を開きました。ここから室町時代が始まります。
しかし、このあとの50年間は日本の歴史の中でとても不思議な時代になります』
不思議な時代
〈この50年間は日本の歴史の中でとても不思議な時代です。次のどれでしょう?〉
A 天皇が二人いた B 将軍が二人いた
正解はAです。
『後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れそこに皇居・朝廷をつくりました。
これが南朝です。尊氏は京都の朝廷に残った天皇から征夷大将軍に任命されて、室町に幕府を開きました。
京都の朝廷が北朝です。しばらくの間は、南朝を支持する武士もいて押しつ押されつしました。
また、尊氏も皇室を尊敬する気持ちは厚く、
「いまは対立してしまったが、後醍醐天皇なくして室町幕府もなかった。後醍醐天皇は大恩人だ」
とそのために天竜寺という大きなお寺をつくったりしました。
尊氏は南朝を攻め滅ぼすことはかんがえなかったのです。
いつか時が解決してくれるという気持ちだったでしょうか』
●南北朝時代
京都の朝廷(北朝)+室町幕府 VS 吉野の朝廷(南朝)
『この南北朝時代はなんと半世紀以上続きました。しかし、天皇陛下が二人いるというのは、国の中心が二つあるようなもので、正しい国の形ではありません。この異常な二人天皇時代を、話し合いで一つにもどしたのが、室町幕府の第三代将軍足利義満でした。次回は義満のお話です』
コメント
コメント一覧 (8件)
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長野県安曇野市で小6担任してます。45歳です。
なかなか室町時代は難しいと思っていたら、このブログに出会いました。
わかりやすくて素敵です。
わたしもできるだけ勉強が苦手な子に、社会科を
好きになってほしいと常に願っています。
また読ませていただきます。
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将軍が二人いた、というBではなく、天皇が二人いた、というAが正解のように思うのですが・・・
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三毛猫さま
ご指摘ありがとうございました。
びっくりしてさっそく直しました。
ありがとうございました。
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最後の問題はAの天皇が二人いたではありませんか??
二人の将軍とは、足利尊氏と誰を指すのでしょうか?
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2013-05-16に「さっそく直しました」との事でしたが
2013-07-31現在でもまだ「正解はBです」のままですよ。
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ありがとうございました。
「さっそく直した」つもりでしたが、
保存しなかったのかもしれません。
ほかにもあると思いますのでお気づきのことまたお教えください。
よろしくお願いします。
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吉野は奈良です
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河内もんちゃん様
ありがとうございました。
赤面のかぎり、どうかご憫笑ください。
今後ともよろしくお願いいたします。