源頼朝と鎌倉幕府



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源頼朝と鎌倉幕府

●この授業の最も重要な教育内容は、源頼朝が朝廷(天皇)を守り抜いたことです。
源頼朝は、平氏のように朝廷には拠らず、鎌倉に幕府という新しい武家の政権を樹立しました。
そのとき、頼朝は、朝廷を打倒せず(革命は起こさず)、天皇から征夷大将軍に任命していただいて(天皇によって政権の正統性を承認していただいて)、天皇を国家の中心とした聖徳太子の国づくりの大方針を継承しました。
この後700年ほど続く武士の政治がすべてこの方針を継承したことによって、わが国は世界に類例のない国家のすがたを今日まで伝えることになりました。武力革命を否定した国日本の歴史は頼朝に始まるのです。

1 新しい日本人(武士)の願いにこたえる政治

●「一所懸命」について教える。土地のために命をかけた武士。自分の土地所有を認めてくれる頼りになる権力(新しいリーダー)ががほしかった武士たち。
●頼朝像を黒板に貼る。
●頼朝の新しいアイデアとは、この全国の武士たちの願い「政府から、おまえの土地はおまえのものである」と認めてもらいたいという願いにこたえ、実力で守ってくれる政治、武士による武士のための政治を実現することでした。
頼朝は、そのためには、太政大臣になって朝廷の中で政治を進めるやり方はダメだと考えていました。

【問題】みなさんが頼朝だったら次のどれを選びますか?
 A:朝廷(天皇)を滅ぼし、新しい武士の政府をつくる。
 B:朝廷(天皇)から政治を進めることを認めてもらい、新しい武士の政府をつくる。

『Aは実力で国をまったく新しく作り直してしまうやり方です。古い政権が武力によって打倒され、新しい政権が始まるのは、中国方式(易姓革命という)であり、世界のあらゆる国々の歴史に見られるやり方です。』
『Bは天皇に政治を行ってよいと認めてもらった上で、貴族に替わって武士が政治を進めるという考えです。天皇中心という国の形は変えないやり方です』

【解説】この授業の核心はこの政策選択発問です。
ノートに理由も書かせて、話し合わせます。
もし時間がなくなるようなら、以下の展開はプリントを渡し、さらっと解説して終わってかまいません。
ぜなら、「大化の改新の授業」と同型のこの授業こそ、日本のアイデンティティーである「天皇中心の国」を学ぶ学習だからです。

【解説】政策選択発問は、正解か不正解かを問うものではありません。
AとBという二つの政策の可能性を、これまでの歴史学習(既習事項)をもとにして、学習者の心情や思考によって選ぶことに意味があるからです。
実際の歴史はどう進んだかという一つの答えは出るけれど、別の選択肢が選ばれた可能性はあるのですから、もう一つの答えが間違いだということにはなりません。
ここで自分なりに考えて、選ぶことの価値は、どちらを選んでも等価なのだと話しましょう。
理由を考えて選ぶことに意義があるのだと、しっかり教えましょう。
それこそが歴史的な思考だからです。

●5分ほど時間を与え、ノートに書いたことを発表させます。これまでの授業をもとに考えると、Bが優勢になりますが、Aもけっこうがんばります。おもしろい話し合いになります。

2 政治の天才頼朝のアイディア

●資料「政治の天才・頼朝」を読み、実際はどうだったかを知る。


【お話】政治の天才・源頼朝のアイデア

源頼朝はBを選びました。
 頼朝は、当時の朝廷のリーダーだった後白河法皇にこんな手紙を書いています。

「わたしたちは、朝廷をお守りするために平氏をほろぼしたのです。法皇のご命令にそむくようなことはいたしません。」

 頼朝は、朝廷(天皇)から征夷大将軍という位をもらいました。

 その位は、武士のかしらとして政治を行うことをゆるすぞという意味でした。

 頼朝は、朝廷を武力でほろぼして自分が日本の王になる実力は持っていましたが、聖徳太子がつくった「天皇中心の国のかたち」はこわさないことにしたのです。

 日本国のまとまりの中心はあくまで天皇である。武士はそのご命令でこれから日本の政治を進めていくのだ。それが頼朝の考えでした。

こうして頼朝は1192年に鎌倉幕府という新しい政府を作り、武士による武士のための政治を始めたのです。武士の政府のことを幕府といいます。そしてそのトップが将軍(征夷大将軍)です。
 幕府のあった場所は鎌倉、いまの神奈川県鎌倉市です。この鎌倉に幕府があった時代を鎌倉時代といいます。

 この頼朝のアイディアによって、天皇(朝廷)は国のために祈り、武士が実際の政治を進めるという新しい国のかたちが生まれたのです。

 天皇は日本という国のまとまりの中心であり、実際の政治は武士の幕府が進めるという国の形です。

 世界の歴史では、力のある者が、古い支配者を滅ぼして新しい国をつくるのがふつうでが、わが国の武士たちは「国の中心は天皇である」という考え方だけは変えなかったのです。

政治の天才頼朝のアイデアのおかげで、わが国は大昔から続いてきた「天皇を中心とする日本」としてつながっていくことになったのです。

 そして、天皇と貴族の朝廷は、政治は武士にまかせて、神様に日本の平和を祈ったり、昔から続いた日本の伝統文化や日本らしい行事を守り伝えることをおもな仕事にするようになったのです。

 頼朝が始めた武士の政治はこのあとおよそ七百年も続きました。鎌倉幕府から五百年後、徳川家康は、頼朝に学んで江戸幕府をつくります。源頼朝はその後長く続いた武士の政治のお手本となったのです。


●資料「鎌倉幕府の仕組み」を配り、幕府(将軍、守護、地頭)などについて説明する。
●一所懸命・御恩・奉公について教える。

●しばらくは二重政府状態の日本であるこもを説明したい。
天皇・・・朝廷・・・国司・・・・・・・非御家人・農民(西日本)
天皇・・・幕府・・・守護・地頭・・・・御家人・農民(東日本)

3 その後の鎌倉幕府

1 二代将軍:頼家・・・北条氏によって暗殺された

2 三代将軍:実朝(弟)・・・政治から遠ざかり、和歌や学問の道を好んだ、頼家の子:公暁に暗殺された。政治の実権は執権:北条泰時に移ってた。

3 北条氏が「執権」という役職で政治の実権を握った。その後の将軍は貴族や皇族から選ばれた。

4 承久の乱・・・・後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げさせた。武士にとっては朝廷を滅ぼせる絶好のチャンスだった。いったん兵を率いた北条泰時は、わざわざ引き返して父義時に聞いた。「もし上皇ご自身が兵を率いてこられたらどうすべきか?上皇に弓を引くことになるがよろしいか?」義時は答えた。「もし上皇ご自身が出陣してこられたら、武器を棄てて降伏せよ。しかし、敵が武士だけであれば、あくまで戦って幕府を守ろうではないか」
頼朝の妻、北条政子の言葉「頼朝の殿のご恩に報いよ」も紹介しよう。

5 幕府が勝ち、上皇は隠岐に島流し。朝廷と幕府の二重政府状態は終わり、天皇によって政権を認められた鎌倉幕府による統一国家が成立した。

4 まとめ
*源義経を倒した頼朝は、義経に比べるとあまり人気はない。(ここで判官贔屓の伝統を教えよう)。しかし、非情で冷酷な頼朝の実行力とアイディアがなければ、聖徳太子の国づくりの大方針は受けつがれていなかったかもしれない。頼朝の強さが国のかたちを守り、日本の伝統を守るとともに、新しい政治を創造したのだといえるでしょう。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (1件)

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    朝日さすみかさの山はいはし水今行くすゑぞはるかなりける 源頼朝

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