西郷隆盛は、明治維新の最も偉大な英雄である。西郷がいなければ薩長同盟はなく、大政奉還も王政復古もなかった。西郷がいなければ、封建制度を無血のうちに廃止した廃藩置県もなかった。
また、岩倉遣欧使節団の留守政府で首班を務めた功績も大きい。廃藩置県をやったばかりのまだ不安定な時期に、岩倉・大久保・木戸というトップリーダーたちがそろって洋行してしまった。西郷はそのときの留守政府を見事に治めたばかりか、次々と近代化政策を推進していった。断髪・廃刀の許可や徴兵令(国民皆兵制)などによる封建的身分制度の撤廃、地租改正による近代的な土地制度と税制改革、学制公布による教育制度の確立、鉄道・郵便・電信・太陽暦など西洋文明の導入、戸籍制度や法治主義の確立など、すべてみな西郷政府がやりとげた近代化政策である。
しかし、使節団帰国後の征韓論争をきっかけに西郷は鹿児島に帰り、もう二度と政府に出仕することはなかった。そして数年後、再び歴史の表舞台に登場したとき、西郷隆盛は明治国家最大の謀反人となっていた。「武士中の最大なる者」が自らが作り上げた新国家に反逆し、「最後の武士」として滅び行く道を選んだのである。
ここに人は、西郷の謎と矛盾を見る。しかし、明治天皇も勝海舟も国民の多くも、そういう西郷を丸ごと愛してきた。彼らはみな、西郷がしたことをありのままに受け入れて、維新最大の功労者にしてかつ明治国家最大の反逆者となった人物を、敬愛し続けてきたのである。
西郷隆盛は文政十(一八二七)年、鹿児島城下の下級武士の集落である下加治屋町に生まれた。同じ町内から盟友大久保利通をはじめきら星のごとき明治の偉人たちが出ている。薩摩の青少年は町内の青年団で基礎教育を受けた。これを郷中教育といい、いまの小学生から二十代半ばくらいまでの武士の子弟が参加した。教育の根幹は義を実践できる人物を育てることにあった。最も厳しく求められたのは、「潔く勇敢であれ」「弱い者をいたわれ」「嘘をつくな」だった。最も卑しまれたのは「臆病」であり、弱者や年少者へのいたわりのない者も手厳しく軽蔑された。西郷に限らず維新の志士となった薩摩武士の精神はこの郷中教育で鍛えられたのである。
西郷はとりわけ信義に篤かった。難局であればあるほど相手の人物との信義を守ろうとした。勝海舟との品川会談がその代表である。東海道と中山道を進んだ官軍にとって、賊軍幕府を討つことは当然のことだった。しかし、西郷はあらゆる反対派を押し切って、徳川慶喜を謹慎に止め、幕臣にも禄を与えるという寛大な処遇で収めた。こうして、将軍は無血のうちに江戸城を天皇に明け渡し、江戸100万の庶民は戦火から免れ、虎視眈々とわが国のほころびをねらっていたフランス・イギリスに介入の隙をあたえなかった。これがまさに旧友勝の信義に応えた西郷流なのである。
また、西郷は情の深い人物だった。信義に篤いことと情の深さは物事の裏表である。しかし、義はあくまで公のものであり、情は私である。そこに西郷の悲劇がやってくる。
西郷を慕って鹿児島に帰ってきた士族とは、維新回天の大業に命を捧げてきた勇者たちである。明治日本ができたのは、ほかならぬ彼らのおかげである。しかし、いまその明治政府が彼らの職を奪い、帯刀の名誉を奪い、いままた秩禄まで奪おうとしている。その無念は西郷のよく察するところであり、西郷の情は強く動かされていた。
しかし、何あろうその政策を実行してきたのはほかならぬ自分である。近代化とは西洋化である。それなくして、日本を西洋の植民地化の危機から救い、彼らと対等に交際できる独立国日本の建設はない。西郷は引き裂かれる思いだったにちがいない。
ただ、一方で帰郷した西郷の胸にも、自分が成し遂げた革命の現実への疑義が宿っていた。「文明とは正義が広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」「何の考えもなく外国のマネをしていたら、国民の道徳心はおとろえて、わが国は救いようのない国になってしまうだろう」(『南洲翁遺訓』)。たとえ日本から武士が消え去っても、国民一人一人の心の中に義に篤い武士の魂を残さなければならぬ。それが西郷の思いであった。
西南戦争の西郷はもはや政治家でも軍人でもない。求道者として最後の武士たちを率いたのである。勝っても負けても、この戦争は日本に武士道を残す戦いになるだろう。「今般政府に尋問の廉あり」という西郷の真意はそこにあった。
だからこそ、日本人は西南戦争をただの反乱とは見なさなかったのである。勝った側も負けた側も西郷のために黙祷したのである。そして、日本人は日清・日露と次々に国難に遭うたびに西郷の義挙を思い出し、ともに大和魂を生きようとしてきた。おそらく、あの大東亜戦争が終わるまではまだ西郷の伝言は生きていたのである。
いまも、鹿児島の南洲墓地には西南戦争で死んだ最後の武士たちの墓石が、西郷を中心に堂々たる隊列を組んで桜島を臨んでいる。そして「今般政府に尋問の廉あり」と、いま東京に向かって動き出しても不思議ではないように見える。
『南洲翁遺訓』には、こんな一節もあるからである。「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は出来ない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果友好的な関係は終わりを告げ、最後は外国に仕えることになるのである」。
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