八田與一



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 明治28年から昭和20年までの半世紀、台湾は日本だった。日本は責任を引き受けて、けんめいに台湾の近代化を進めた。たくさんの日本人が台湾に渡り、台湾のために尽くした。もちろんそれが国益にもかなっていたからだが、尽くしたことに偽りはない。彼らは台湾で子を産み、一家を養い、台湾を生涯の故郷だと思っていた。八田與一も、そのようなあたりまえの日本人の一人だった。

八田與一は、明治19年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校から東京大学に進み土木工学科を卒業した。「官位や地位のためでなく、一人の技師として、後世の人に恩恵をもたらすような仕事をしたい。」それが八田青年の志だった。卒業後まもなく、24歳で台湾総督府土木局に着任した。それから56歳で亡くなるまでの32年間、八田與一は土木技師として台湾の民生向上のために尽くした。その最も偉大な業績が、嘉南平野15万町歩(ほぼ香川県の面積)の灌漑である。八田與一は、広大な不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた設計技師であり、工事の一切を取り仕切った現場責任者だった。それは弱冠35歳に始まり44歳で完結した大仕事であった。

 10年をかけた壮大な工事の核心は、上流の烏山頭に当時東洋一といわれた巨大なダムを築くことと、1万6000キロメートル(万里の長城の約6倍)の給排水路を引くことだった。烏山頭ダムの水量では広大な嘉南平野の三分の一しか潤せないのだが、八田は平野の全域に水路を張りめぐらせた。三年輪作給水法というアイディアがあったからである。平野の各地域を3ブロックに分割し、稲作ブロックには給水、甘藷ブロックには種植期だけ給水、雑穀ブロックは給水なしという形で、一年ごとに輪作するシステムである。「三分の一の農民が豊かになり、残りの農民は貧しいいままでは意味がない。嘉南平野の全農民が豊かになるためにはこの方策しかない」。この発想に表れている均しくいとおしむ心が八田與一の本領である。

 八田のいとおしむ心を偲ばせるさまざまなエピソードがある。たとえば、彼は常に作業着で工事の最前線に立ち、日本人も台湾人も差別しないことを率先垂範して示した。工事の殉難者を顕彰するときも日本人と台湾人をまったく区別していない。また、工事従事者が現場で家族と一緒に暮らすという、当時としては異例の職員施設を建設した。家族で住める宿舎・共同浴場・店・テニスコート・広場・娯楽場(クラブとよんだ)、そして学校まで作った。さらに定期的に映画会や運動会などのレクリエーションも実施している。烏山頭の山奥に、人々が生活を楽しみながら苦労を分かち合う街をつくることによって、あの気宇壮大な大工事を支えきったのである。もうひとつこんな逸話もある。関東大震災の影響で大幅なリストラをしなければならなくなったときのことだ。八田は部下の提案を否定して、「大きな工事では優秀な少数よりも、平凡な多数こそが肝心な仕事をするのだ。また、優秀な者は再就職できるが、逆はない」と言った。八田は優秀な人材から解雇して、全員の再就職を世話したのだという。こうして残った者の志気が高まり、やがて平凡の中から優秀が現れるのである。

 工事の完成は嘉南平野に多大な恩恵をもたらした。まず洪水・干ばつ・塩害という農民の三重苦が解消された。次に三年輪作給水法によって全農民の農業技術が向上した。最後に、農民の生活が一変した。生活が豊かになり、家の増築や子供の教育にお金をかけるゆとりも生まれたのである。

 水利組合の人々や農民たちは感謝の心をこめて八田の銅像をつくった。農民たちは、八田の「えらそうな像はやめてくれよ」という希望を入れ、作業着姿で工事を見守る八田像を作り、台座もなしで堤の上にじかに据え付けた。この含羞もまた、八田のいとおしむ心によく似合っている。

 いまも、その八田與一像と八田夫妻の墓が烏山頭にある。八田は左足を投げ出し右膝を立てて堤に腰掛けている。右手は髪の毛をくるくる丸めるようにいじっている。これは八田が考え事をしていたときのくせだそうだ。日本人の銅像は、戦後すぐに破壊されるなどしてすべて失われたが、ただ一つ八田の像だけは農民たちによって守り抜かれ、昭和51年、再びここに設置することをゆるされた。今でも、八田の命日である5月8日には、毎年墓前祭が行われている。嘉南平野60万の農民たちは、いまも八田與一を嘉南平野の父として慕い、その功績を称えているのである。

 明治日本は、八田のような優れた人材を惜しみなく台湾の近代化と民生向上のために注ぎこんだ。その多くは台湾人を同胞として接し、心血を注いで公に奉ずる使命を果たした。かつて、そのような日本があり、そのような先人がおられたことを、静かに誇りに思いたい。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (2件)

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    ふと立ち寄らせていただきました。八田技師の介紹、ありがとうございます。彼の生き様が、私の人生を変えました。

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    徳光様、コメントありがとうございました。十年ほど前、台湾に行き銅像も見て来ました。毎年児童に教えてきましたが、みな感動してくれます。自由社の『新しい歴史教科書』には八田與一が載っています。

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