中大兄皇子1「大化の改新」



日本史ランキング
クリックお願いします!別ウィンドウが開きます

中大兄皇子1「大化の改新」
●学習指導要領には42人の歴史人物を教えることが定められています。その人選には異論もありますが、とりあえず小学校の歴史学習の一つの基準として、私はこれに従って授業づくりをしてきました。かなり軽重はつけていますが。ここでは中大兄皇子の大化の改新がまさしく聖徳太子の国づくりの大方針の継承であることを学びます。

1 聖徳太子一族の滅亡
【プリント「聖徳太子一族の滅亡」】を読み、問題を考えさせる。
【資料:石舞台古墳】【資料:遣唐使航路図】【資料:復元遣唐使船】


お話 聖徳太子一族の滅亡
①聖徳太子の死後、再び蘇我氏の一族が実力をふるい始めた。
 とくに蘇我馬子の孫の蘇我入鹿は、唐から帰国した留学生が先生になって日本のリーダーを育てていた塾の中で、一番頭がいいといわれ、朝廷の政治でも実力を出していた。蘇我氏は天皇の宮殿と同じような屋敷を建てて「みかど」とよばせたり、天皇と同じようなぶ古墳をつくらせて「みささぎ」とよばせたりした。「みかど」も「みささぎ」も聖徳太子のころから、天皇にだけ使える言葉だったので、人々は蘇我入鹿の心ををあやしむようになった。
②蘇我氏が力を伸ばしたことをよく思わない豪族たちには、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらって、蘇我氏のいきおいをおさえ、聖徳太子の国づくりを受けついでもらいたいと願う者が多かった。
③これではあぶないと考えた蘇我入鹿は「山背大兄皇子を倒せば問題は解決する」と蘇我氏の軍を出して皇子をおそった。六四三年のことである。
 皇子の家来たちは「東に逃げて生きていれば味方はいるのだから必ず蘇我氏を倒すことができます」と皇子を説得したが、皇子はなぜか聞かなかった。そしてこう言って死んだと『日本書紀』に書いてある。
「私がもし兵をひきいて戦えば、その戦いでまた多くの国民の命をうばうことになる。私一人が死んで国がまとまるのなら、それも男子の道といえるのではないか」こう言って、皇子は自殺し、一族の者も後を追って死んだ。こうして、聖徳太子の直接の子孫はいなくなってしまった。

【問題】みなさんは大和朝廷のリーダーです。どちらを選びますか?

A 国がまとまるのなら、蘇我氏中心の国でもかまわない。いや、その時その
 時でいちばん実力のある人が中心になって国をまとめたほうが、日本はよ
 り発展するだろう。ここで蘇我氏を倒す戦いを起こせば、山背大兄皇子が
 聖徳太子の「和」の教えを守って戦いをさけた意味がなくなってしまう。

B 蘇我氏を倒して、天皇家中心の国のかたちを守り、聖徳太子の国づくりの
  方針を受けつぐべきだ。戦いはないほうがいいが、もしこのまま蘇我氏が
 天皇家にかわって国の中心になることを許せば、またいつかは第二、第三
 の実力者が現れて、かえって戦いがくりかえされることになるだろう。


『あなたが当時の日本のリーダーだったら、どちらを選びますか?』

A その時の実力者が国家のリーダーになればよい(中国方式)
B 天皇家の血筋から天皇を選び、国の中心となるべきだ(日本方式)

*ノートに書かせてから発表させる。
 *相互に反論があれば討論させる。
 *Bが勝ったという史実を教え、次に進む。

2 中大兄皇子と中臣鎌足
【肖像画】を貼り、生年を板書する。

*以下を物語る。

①中大兄皇子は626年に生まれた。
父は舒明天皇、母は皇極天皇、賢くて決断力のある若者だった。天皇家の若き皇子として、蘇我氏のやり方に反対だった。そして、聖徳太子の国づくりを受け継いで発展させたいと考えていた。
②中臣鎌足は614年生まれた。
日本の神々をまつることを国の仕事としてつとめてきた家柄だった。蘇我入鹿と同じ塾に通い、同じくらい優秀だった。
③二人は、蘇我入鹿が「天皇中心に国がまとまる」という聖徳太子の大方針を乱して、国を自分のものにしようとしていると考えていた。
④二人は、蹴鞠の会で出会い親友となった。同じ塾に通って勉強しながら、蘇我氏を倒すことを話し合った。
⑤645年6月12日、朝鮮の三国(百済・新羅・高句麗)から使節がやってきたとき、二人は仲間と共に、天皇の前で蘇我入鹿を殺した。
中大兄皇子は天皇に言った。
「蘇我入鹿は、天皇をほろぼし、自分が天皇になろうとしています。許してはなりません」この事件で、それまで蘇我氏を応援していた人々も去り、蘇我入鹿の父も「おまえはやりすぎた。だから恨みをかったのだ」とつぶやき、自ら屋敷に火を放って死んだ。これによって、蘇我氏も滅んだ。

⑥数日後、飛鳥寺の大ケヤキの下に朝廷の役人たちを集めて、中大兄皇子は宣言した。
「天と地の間には、君主は一人しかいない。しかし、君と臣の順序がでたらめになってしまった。そこで、天が私たちに力をかして、道をふみはずした蘇我氏を討たせてくださったのである。
 これからは、一人の天皇を中心にして、臣たるものは天皇に従うようにしなければならない。これにそむくようなことがあれば、必ず天の罰を受けることになるだろう」

⑦皇子は、初めて元号「大化」を定めて、この645年を大化元年と決めた。そして、次々に、聖徳太子の方針を受け継ぐ、国づくりの大改革を実行した。
これを大化の改新という。・・・

『平成まで続いている元号は、大化から平成までいくつあるでしょうか?』

*元号は今にまで続いて247になる。今上天皇は神武天皇から数えて125代目。

3 大化の改新について知る
*【資料「大化の改新って何だ?】を読む。


大化の改新て何だ?

■地方には古墳時代からの「くに」があり、それぞれの「くに」にはリーダーがいた。このリーダーはむかし「王(きみ)」とよばれていたが、大和朝廷が日本を統一して、王という地位を捨てて大和朝廷の支配下に入った(これが豪族)。けれども聖徳太子や中大兄皇子の時代には、まだ地方ごとの「くに」はそのままで、地方ごとに税が集められ、地方ごとに政治が行われていた。
まだ、本当の意味で「国が一つになった」とはいえなかった。聖徳太子の大方針は、これを本当の意味で「天皇の下に一つの国にする(天下)」ことだった。それでなければ、大帝国「隋」や「唐」と対等になることは夢のまた夢だったからだ。

■大化の改新に参加した遣隋使の留学生たちは、ちょうど隋がほろびて唐が天下を取ったときに中国にいて、新しい中国が生まれ変わるところを見てきた。大化の改新は、この唐の国づくりから学んで、日本を本当の意味で「一つの国」にすることだった。
中大兄皇子と中臣鎌足が行った大改革のおもなものは次の通りだ。

①【地方ごとの「くに」をやめて、土地と人民を一つにまとめる】
 地方ごとの「くに」をやめさせて、全国の土地と人民を、天皇のもとに一つにまとめて(国土と国民)、本当の意味で「日本」という一つの国をつくった。

②【地方に国の役人をはけんして、全国で同じ政治を進める】
昔からその土地を支配してきた豪族にかわって、大和朝廷が「国司(こくし)」という役人(いまの知事や市長)を任命し、国の方針どおり地方の政治を進めさせた。

③【税を公平にし、全国民の税を国に集め、大きな政治ができるようにする】
 人民にはあらためて、天皇が公平に土地(田)を与えて、地方ごとにバラバラだった税も、全国公平に集められるようにした。全国の税が国に集まり大きな政治が行えるようになり、りっぱな国の首都(難波京)を造ったり、
全国につながる道をつくったりできるようになった。

④【国を守る軍隊をつくる】
 全国から公平に兵隊を集めて、防人(さきもり)という国の軍隊つくり、いざというときにそなえた。

(注)①のことを公地公民といいます。
③の税は「租・庸・調」などがあった。その内容は資料集を見てください。


『中大兄皇子の大改革を「大化の改新」といいます。中大兄皇子は日本をどんな国にしようとしたのでしょうか?』

*ノートに書かせ、発表させる。

 ●「天皇中心の国」「天皇中心にひとつにまとまる国」

『大化の改新の中には、聖徳太子の大方針がすべて入っています。聖徳太子の国づくりの設計図が受け継がれ、実現し始めたことがわかります。中大兄皇子と中臣鎌足は、聖徳太子の国づくりのバトンを受け継いで実行していった人物だと言えるでしょう』

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメントする

目次