聖徳太子3「遣隋使の国書」



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 これは拙著『学校でまなびたい歴史』(産経新聞社 2003)に発表した3本目の授業です。
 私の歴史授業は、聖徳太子の業績によって日本の国柄を教えるという組み立てになっています。
 聖徳太子の事績が後の日本の国づくりの大方針を示しており、それが明治維新という古代に続く第2の国家形成においてもしっかりと受けつがれているからです。
 長くて読みにくいとは思いますが、ぜひ読んでみて下さい。


聖徳太子3「遣隋使の国書」

◆授業づくりの話◆
聖徳太子の授業の一時間目で「仏教伝来」を取り上げ、聖徳太子とは日本の国の設計図を書いた人物だととらえておいた。そして、その偉大な業績の第二、第三を教えていきますと予告した。本書はそのすべてをお見せできないので、ここで聖徳太子の授業のあらましを述べておきたい。
 私は聖徳太子の授業に四時間かける。全六十八時間のうちの四時間だから、これは他の人物とは別格の扱いである。それは前述したように、聖徳太子が日本という国の設計図を書いた人物だからである。言いかえれば、日本の国づくりの骨格となる大方針を示した人物だからである。
 その大方針とは次の三点である。

一、外来文化と伝統の統合
  外来文明に偏見を持たず良いものはよいと積極的に導入するが、わが国の伝統も良い ものはよいとして自覚的に継承し続ける。そして、両者を統合して新たな日本を再構成 していく。
二、天皇中心の国
  天皇の地位は世襲とし、天皇を中心に国家の統合を図る。政治の実権はその時その時 でふさわしい人物(たち)が担い、国家が一つにまとまるための象徴的な権威として、 天皇を位置づける。
三、国家としての自立
  たとえ先進文明を学ぶ側であっても、日本の天皇は隋の皇帝と対等であると宣言し、 それまでのように中国皇帝に「王」として柵封される関係を廃止した。このとき初めて、 天皇は中国皇帝の家臣であることをやめ自立したのである。
  たとえ国力がちがい、文明の質が異なっても、国家と国家の外交関係は上下ではなく、 あくまで対等であるとしたのである。

 この三本の柱は、以後天智天皇から聖武天皇に至る時代の人々によって継承され、奈良時代には古代日本が完成することになる。国家が完成するという言い方はあまり正確ではないかも知れないが、少なくとも建国から聖徳太子に至る日本国草創期の人々が夢に見、思い描いたであろう国の姿に到達したのが天平時代であるととらえたい。
 その後、中国文明と一定の距離を置いた時代が来る。平安時代から江戸幕末までがそうだ。この時代は、わが国が外来文明とは距離を置いて日本独自の文化的な自己形成をとげた時期であったととらえよう。この時期は国際社会との公式な交渉がなくなり「一」は見えにくくなる。しかし、戦国から江戸に至る西洋文明との出会いに際しても「外来文化と伝統との統合」が試みられている。そして「二、天皇中心の国」と「三、国家としての自立」もまた、およそ千年の長い歴史を貫いてたしかに継承されていった。法的に見れば、明治憲法以前のわが国は古代律令国家の継続ととらえるのが正しいからである。
 この長い文化的な自己形成期の次に、明治維新がやってくる。それは、古代国家形成期に続く、わが国の第二次国家形成期である。日本の近代国家の建設は「王政復古」に始まるのだが、明治の先人たちの国づくりの基本方針が聖徳太子のそれとまったく異ならないことに注目すべきである。相違は、かつては中国古代文明の衝撃であったものが、ここでは、欧米の近代文明との衝突であるだけである。
 古代日本が遭遇した世界とは、中華文明を盟主とする東アジア世界であった。しかし、幕末の日本の前には地球上全体が一つの世界として立ち現れてきたのである。そして近代国家日本が完成したときには、もうかつてのような世界と距離を置いた自己形成期は与えられなかった。
 わが国の先人の歩みと功績は、必ず聖徳太子の三大方針のどこかに位置づけることができる。大きな視野で見れば、私の全六十八時間の歴史授業のどこを切っても、この三本の柱が見えてくる。歴史の神もまた細部に宿り給うので、すべての授業がそうだとは言い切れないが、聖徳太子の国づくり三大方針は私の歴史教育の内容構成の指針でもあるのだ。
 以上が、聖徳太子を時間をかけて印象深く教えたいと考える理由である。
 さて、具体的な授業の話である。
 「一、外来文化と伝統の統合」は一時間目の「仏教伝来の授業」で取り上げた。これは前章の通りである。
 「二、天皇中心の国」は、本書には取り上げられないが「十七条の憲法」の授業である。教科書や資料集を見ると「十七条の憲法は役人の心得集のようなもので、今日のいわゆる憲法ではない」という注釈が入っている。が、私は十七条憲法もりっぱな「憲法」であるととらえている。なぜなら、それは「天皇中心の国」というわが国の国柄を初めて明確に示した文書だからである。「天皇中心の国」は、律令・明治憲法・昭和憲法と継承されて今日の日本がある。「いや国民主権だ」などと頓狂なことは言わないでほしい。イギリスやスエーデンなどと同様に、国家を統合する皇室(王室)の働きといわゆる立憲主義=民主主義はりっぱに両立するのである。象徴天皇制度が戦後だけのものではないことは、歴史を虚心に眺めればわかることである。
「三、国家としての自立」がここで紹介する「遣隋使の国書」の授業である。
 この授業には学習の前提となっている授業があり、子供たちもその内容をふまえて考えているので説明しておこう。先行する「弥生時代の王たち」と「卑弥呼の国・邪馬台国」という授業がそれで、中華冊封体制下の日本を取り上げている。前者では志賀島出土の金印「漢委奴国王」を教材に、後者では『魏志』倭人伝を教材に、中国の強いパワーを後ろ盾にして国づくりを始めた日本列島の王たちを取り上げている。
 授業「弥生時代の王たち」の後、一人の児童は次のように書いていた。
 
 ●金印は水戸黄門の印籠みたいだった。それは周りの国々をしたがえるのに役に立っただろう。でも、よく考えるとこの場合は中国の皇帝が「将軍様」ということになり、何かへんだった。弥生時代の日本は中国と親分・子分関係だったことがわかった。
 
 卑弥呼の授業では『魏志』倭人伝を読んだ。魏と邪馬台国の関係も前の授業の奴国と変わらない。子供たちは「邪」や「卑」という文字遣いにはなはだ不満であった。そういう理解と心情をもちながら、子供たちはこの授業「遣隋使の国書」に入ってくるのである。
聖徳太子の授業の四時間目「聖徳太子と国づくりの三大方針」では、太子の生涯とその偉大な業績をまとめた。この授業の最後に、子供たちは日本書紀の太子死去の記事に出会う。当時の人々の悲しみの深さに、子供たちもまた深く心を動かされ、四時間の授業が終わるのである。
 最後に注記を一つ。実は、この授業は安達弘氏(○○小学校教諭)がつくり最初に実践されたものであり、私は氏の詳細な実践記録を追試したのである。安達氏は自由主義史観研究会の共同研究者でもある。授業の構成や資料など変更したところもあるので、ここに示す授業の責任はすべて私にあるが、安達先生の研究がなければこの授業はあり得なかった。ここに謝意を表しておきたい。

◆授業の実際◆

1 遣隋使の国書
 いきなり黒板に次の文を書くことから授業に入る。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

『読んでください。読めないところはホニャラと読みましょう』
授業の入り口は誰でも参加できる活動を組むことが多い。絵や写真をなどビジュアルな資料を「読む」ことが多いが、ここでは言葉を読むのである。一年生で習う漢字もあり、誰にでも読める部分があるのだから、子供たちを列で指名して順番に言わせていく。
「ヒデルホニャラ・・・」から始まって、八人が力を合わせて読んだ結果はこうなった。
「ヒノデルショノテンシ、ショヲ、ニチボツスルショノテンシニイタス。ホニャラナキヤ」
わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分に包まれていた。
 たいへんよく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。とくに「ヒデル」をヒノデル」と読み替えたのは素晴らしいね。『魏志』倭人伝のプリントのように、この時代にはまだかな文字がありません。だから、実際は全部漢字で書いてありました。黒板に書いたのは、たぶんこう読んだに違いないと研究者が直したものです。最初の部分は「日出処天子」となっています。だから「ヒノデル」という読みも正しいといえます。
 では、黒板のように書いた場合のふつうの読み方を教えましょう。
『ヒイズルトコロノテンシ、ショヲ、ヒボッスルトコロノテンシニイタス、ツツガナキヤ』
 教師が先に読み上げ、子供たちに後に続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。大勢が一斉に読むので、この方法を教室では「斉読」とよんでいる。
『これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しの部分です。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?』
「天照大神が誰かに出した」
『天照大神は神さまです。実在の人物ではありません。神さまと実在した人物を区別できるようなりましょうね』
「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した」
『すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません』
この授業は前述した安達氏のアイディアだが、言葉の意味を前もって解説しないまま進行させる構造になっている。わかる部分からわからない部分を推測しながら、少しずつ謎が明らかになっていく。そして、国書前言の全体の意味が明らかになったとき、その歴史的な意義も明らかになるのである。
 読者は、子供たちがなぜ言葉の意味を質問しないのかをいぶかしく思われるかも知れない。だが、子供たちは最初の「ホニャラ」という指示の時点で、「ああこれは謎解きの授業だな」と直感している。とりあえず先生の指示に従って進むほうが勉強が面白くなるはずだと期待しながら、子供たちは野暮な質問は控えているのである。
 実は、これはこの時代の天皇だった推古天皇が出した手紙です。このとき、聖徳太子は推古天皇(この方は女性の天皇でしたが)の摂政として実際に政治を進めました。摂政というのはいまの総理大臣の立場です。実質的なリーダーは聖徳太子だったわけです。半分正解といったのは、差出人は推古天皇で、実際にこの手紙を書いたのは聖徳太子だったからです。
『実はこの手紙は国書といって、国が国へ出した手紙です。個人的な手紙ではありません。日本の天皇から、どこかの国のトップに出したものです』
「中国だと思います」
『大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。これはその書き出しのところを抜き出したものです』
黒板に次のようにまとめた。

日本(大王)・・・・書いたのは聖徳太子
↓遣隋使「国書」
中国=隋(皇帝)

この手紙が出されたのは西暦六〇八年、七世紀が始まったばかりです。
「大王」と書いたのは、この時にはまだ「天皇」という呼び名はなかったと考えられているからです。
 この国書を出すまで百年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。後漢という大帝国が滅んだあと、中国はいくつかに分裂して争っていたからです。その間、大陸の文化は百済など朝鮮の国から日本に入ってきました。
 ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は、仏教を枝のように伸ばして国を発展させると考えたことを実行して、これからは中国から直接進んだ文化を学ぼうとします。そして遣隋使というお使いを中国に送りました。そのその代表が小野妹子です。「妹子」ですがこの人は男性ですよ。たくさんの若者が仏教やその他の中国の進んだ文化を勉強するために中国に渡りました。この国書は、その小野妹子が隋の皇帝に渡したものです。中国の昔の本に記録が残っています。今日の勉強はその記録をもとにしています。
 ここでもう一度斉読しておこう。漢文の歯切れのいいリズムから聖徳太子の強い意志を感じることもできる。それは子供たちの身体にも心地よく響いている。

2 皇帝の怒り
 さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、さっそく皇帝の煬帝に天皇からの国書を渡しました。「すると、皇帝はこの書き出しを読み始めたとたん火のように怒った」と書いてあります。「海に浮かぶちっぽけな国の野蛮人め、許せん!」と、たいへんな怒りようだったそうです。
『この手紙のどこかに、皇帝を怒らせる言葉があったのですね。それはどの言葉でしょう?』
「なんとなくだけど、〈つつがなきや〉」
「つつがなきや」はまったく手がかりがないからね。怪しいと思ったでしょう。でも残念でした。これは「お元気ですか?」という意味です。
「〈処〉だと思います。処刑の処だから、何か悪い意味があるんじゃないか」
よく考えたね。処刑の「処」とは驚きました。熟語から漢字の意味を推理できたのはりっぱです。が、これもちがいます。「処刑」の「処」は、「処理する」とか「処分する」のように、「何かを行う(片づける・始末する)」という意味です。この国書の「処」は、「所」と同じの意味で、場所の「ショ」です。「日が昇るところ」「日が沈むところ」ということですから、「処」で怒ることはありません。
「〈日出る処の天子〉と〈日没する処の天子〉です。なんとなく位を変えろという感じがするから怒ったのではないか」
『すばらしい。それが正解です』 

A 日出る→日没する
B 天子→天子

『隋の皇帝はこのAとBの二つの言葉の組み合わせに怒ったと考えられています。どうしだと思いますか? まずAの方はどうですか?』
「中国が日没するみたいで、暗い感じがする」
「〈日出る〉は日が昇っていくということで、日本の文化がこれから発展していくという感じで、明るい。中国は〈日没する〉で、これから夜になるみたいです」
 ほんとうにそうですね。ふつうの人はそんなこと言われたらまあ、イヤな気持ちになるだろうね。先生も子供の頃はそう教わりました。だから正解とします。でも、これについては、「単に東と西という意味だと考えることもできるから、そんなに気にしなかったのではないか」というのが最近の研究のようです。
『実は、皇帝がいちばん許せなかったのはBのほう、〈天子〉という言葉なのです。この固定の怒りについてはどう考えますか?』
「本当は中国の方が進んでるのに、中国と日本が同じという感じだからです」
「日本の天皇と中国の皇帝が同じえらさになってしまう。だから、そんなことぜったいに許せんって中国は怒ったんだと思いました」
「中国の方が大きくて強いのに、位を同じにされたから怒ったんじゃないか」
「聖徳太子は自分(推古天皇)のことを天子といって、中国の皇帝のことも天子といって、両方が同じ位だと言ってるみたいだから、隋の皇帝は怒ったと思います」
 よく考えましたね。すばらしい。まったくその通りなのです。ここでちょっと復習しておきましょう。
『中国と日本、中国とその周りの国は、これまでずっと親分と子分の関係だった。それが当時の世界だったね。そういう関係のことをなんと言ったかな?』
「册封体制です」
 そうだね。中国が世界の中心で周りの国はその子分の国だった。貢ぎ物を持っていって、国を認めてもらう。おまえが王だと認めてもらう。皇帝がいちばんえらくて、それぞれの国の王は皇帝の家来ということだった。彼らは、中国から「王」という身分をもらったんだね。ところが、この手紙には両方とも天子と書いてある。天子というのは「神さまから政治を任された人」という意味だから 決して悪い意味の言葉ではない。でも皇帝は怒り狂った。「私も天子、あなたも天子とは何ごとであるか」というわけです。たしかにこれじゃ、天皇と皇帝が同じ位になってしまいますね。これまでの上下関係を考えると、許せなかったのでしょう。みなさん大変よく考えました。

3 聖徳太子の考え
さていよいよこの授業の核心の問いに到達した。
『聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい』
その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書かせるのがよい。考えることは書くことだからだ。また、書かせることによって、どこまで子供たちがこの授業についてこられたかも把握することができる。
「それって、わざとなんですか?」
『賢い聖徳太子が、言葉の意味もわからないでミスしたとは考えられません。こうするというはっきりした考えと意志があって書いたことなのです』
この質問の後、子供たちは自分のノートに向かって鉛筆を走らせた。静かな教室に鉛筆の音だけが聞こえる。まるで一生懸命考えているノーミソが立てる音のようだ。
 さて、そろそろ約束の時間が来た。挙手している顔ぶれを見渡して、最初の発言者を指名する。
「自分の国が中国の子分みたいだったじゃないですか。それにちょっと不満を持っていて、ぼくも前の勉強でそうだったんだけど、やだなあって。それで日本もだんだん強くなって行くから、もう同じレベルにしたようと考えた」
「それを短く言うんですが、册封体制をなくす」
「国と国のつきあいを平等にしたい」
「これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくして、日本は独立して中国と同じになる」
「もう中国に従うのじゃなく、自立している国になる」
「いつまでも中国の子分でいたら、日本は成長しない。子どもから大人の国になる」
「いままでは中国に従ってきたけど、これからは日本は日本としてやっていきたい」
「前は中国に従っていたから、邪悪の邪とか、卑しいとか、悪い字を使われていたじゃないですか。そういう関係はイヤだと思った」
「中国の皇帝を怒らせて、日本は中国の子分からはずれる。中国は日本を子分として認めなくなる。それで、中国と日本の関係は上下じゃなくて、平等になる。聖徳太子は、神を幹として仏教を枝として日本を発展させようとした。そのためには、日本が独立してやっていったほうがいいと考えた」
 子供の発言は同じことをくりかえしている。ただ、言い方にそれぞれの個性が出る。言葉を替えたり、何かをつけ加えたり、例示したり、感情をこめたりする。ずばり一言で言いきりたい子もいる。そういう子供一人一人の言葉の違いを大切にすべきである。それが、理解すべき一つのことの陰影や輪郭をより豊かに浮かび上がらせるからである。
 ここで、一人、そんなにうまくいくのかという反論が出て、短い議論が起きた。
「ちょっとみんなに言いたいんですけど。国と国が平等になって独立するのはいいんですけど、日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて中国から離れてしまったら、文化や技術を学べなくなっちゃうんじゃないんですか?」
「たしかにそうかもしれないけど、独立して教えてもらうのはいいけど、このまま中国の子分のまま教えてもらったら、日本は中国と同じ様な国になっちゃうからだと思います」
「でも、前に日本の神を幹にして仏教を取り入れてやっていくと言ったじゃないですか。中国と同じような国に近づくのがイヤだったら、幹だけでいいんだから、仏教も取り入れなかったと思う。」
「中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだったら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方がいい」
「中国から学んでも、国としては平等になろうということだから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると思います」
「でも、実際に皇帝は怒っているんですよね。うまくいかないと思うんですけど」
 この議論が子供たちの思考に奥行きを与えたのは言うまでもない。
 思わぬ児童がたった一人で思わぬ反論をした。みんなはそういうけれど、それで日本は本当に大丈夫なのかと真剣に心配しているのである。この議論のおかげで片側からわかっていたつもりの風景が、反対側からも見えるようになった。反論が出せる教室は何はともあれ素晴らしい。知的にも道徳的にも素晴らしいのである。
『みんなよく考えました。册封体制から離れて、国として中国と対等の関係になるという意見がほとんどでした。みんな正解です。理由づけもすばらしかったね。それがまさに聖徳太子の考えです。とくに最後の話し合いはたいへん重要です。すばらしい反論でした。たしかに、もしこの政策によって中国からまったく学べないことになったら、留学生を送れなくなったら、聖徳太子の考えた日本の発展はなくなるかもしれません。学べなくても中国の子分のままよりは独立を選ぶという意見もありましたが、実は、聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由があって、日本を独立させるこの計画は必ず成功するという確信が持てた。だから聖徳太子は決断したのです。その理由を説明しましょう』 隋はちょうどその頃、高句麗と戦争中で手こずっていた。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておきたいはずだ。そういう聖徳太子の国際情勢についての判断を、地図を使って説明していく。「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても簡単に説明する。この聖徳太子の情勢判断の話で、さらに先ほどの議論の意味が深まっていく。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。ここでまとめておこう。
『中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバリ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は考え、この国書でその考えを実行したのです』

4 もう一つの国書
 これで学習は大きな峰を越えた。そろそろ収穫の時である。
 黒板に次の言葉を書いた。

 東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す。

こんどはすぐに読み方を教え、全員で斉読した。
「ヒガシノテンノウ、ツツシミテ、ニシノコウテイニモウス」
 これは、その二年後に、再び隋の皇帝に送った手紙の、やっぱり書き出しの部分です。このときも遣隋使の代表は小野妹子でした。東の国日本の天皇が、西の国隋の皇帝に、心をこめて申し上げる、という意味です。
『聖徳太子は、このときも、中国の册封体制からはずれて独立する、中国と日本を対等な関係にするという大方針を変えませんでした。それが分かる言葉はどれでしょう』
「〈皇帝〉と〈天皇〉だと思います」
その通りです。「皇」という文字は、王様の王と同じ意味ですが中国の皇帝だけが使える特別な文字でした。だから、子分の国の王様には「王」という字を使わせてきたのです。ところが、この手紙で日本の王は「天皇」ですよと言ったわけです。皇帝でも王でもない、天皇です。「これからは日本も〈皇〉の字を使います」という意味もあります。
 天皇には北極星という意味があるそうです。天の星はすべて北極星の周りを回りますね。国のまとまりの中心という感じがよく現れている言葉です。こうなりました。

 天皇(日本)

皇帝(隋・中国)→王(朝鮮などの国々)

『中国の皇帝はまた、怒ったでしょうか?』
「怒ったと思います」
「ゆるせん! という感じです」
 実際はどうだったのか、残念ながら記録がありません。しかし、このあと、日本の国書にはずっと「天皇」が使われるようになり、中国もそれを受け取るようになりました。国書を受け取ったということは、日本が「皇」を使うことを認め、日本の王が「天皇」と名乗ることを認めたということです。ですから、この国書によって日本の自立は完成したと見てよいでしょう。
 また、先ほどの話し合いで出たような心配も解決しました。このあと遣隋使や遣唐使が何度も中国に送られ、たくさんの日本の若者が中国に留学して勉強を続けました。そして、その成果を日本に持ち帰って、日本の発展につくしたのです。
 たぶん聖徳太子の読みが当たったのだと思います。
『聖徳太子は、みごとに ①中国から進んだ文化を学ぶ、②国としては自立し中国と対等につき合う、という二つのねらいを実現したのです』
〈 聖徳太子の国づくりの大方針 その三 〉

 国として自立(独立国)し、中国と対等な関係になる。

◆子供たちが学んだこと◆
●中国と対等につきあえるようになって良かった。聖徳太子のねらいがあたったので、よくそんなことが思いつくなと思った。聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大きさや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあうのがよいと思った。

●聖徳太子はとてつもなくすごい人だとあらためて思った。随の皇帝を怒らせてまで手紙を書き送った。聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ。」そう気づいたのだと思う。・・・今こうして「日本」という国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思った。

●皇帝を怒らすような手紙を書いたというので、何か悪いことでもしたのかと思った。が、それは日本は独立しますという手紙だった。これには大賛成だ。しかも、皇帝の「皇」の字は、中国の皇帝しか使ってはいけない字だったが、日本は「天皇」と使って、これでどっちも対等だということを書いて、日本を独立させたのはすごいと思った。

●聖徳太子の隋(中国)と大和(日本)が平等につきあえる国にするという考えは、ふつうの人は思いつかない。私なら、自立したらもうつきあいはないと思ってしまう。天皇は北極星という意味だと知って、中心がよくわかった。独立はつきあいがなくなるわけではない。現在の日本と中国も昔を見習ってほしいと思った。

●聖徳太子はとても勇気のある人だと思いました。ふつうは今までつかえていた国に失礼なことは言えないと思います。でも聖徳太子の判断は正しかったのだと思います。太子がこういう手紙を送りつけて、中国の皇帝が怒ったときもあったけれど、だからこそ日本が独立できたからです。それはとても勇気のいることでした。

●聖徳太子はとても危ない賭けをしたなと、思いました。でも、それは日本を思ってこそできたことです。そのおかげで日本は中国と平等な国になれました。中国が日本の気持ちをわかってくれてよかったと思いました。

●ぼくはみんなとは少しちがって、わざと中国の皇帝を怒らすなんて「何やってるんだよ」と思っていた。自分が聖徳太子だったとしても、こんな危険な賭けはやらなかったと思った。ぼくも日本を独立させたいと思うのはいっしょだけど、もっとちがうやり方を考えたと思う。ただ、聖徳太子が国づくりの天才だということはまちがいない。日本の国に誇り
を持っているのだと思う。

●隋に、日本も隋も平等だという手紙を出した聖徳太子の勇気に感動しました。隋の皇帝に怒られたりどなられたりしたのを耐えた小野妹子も、すごい根性だなと感心しました。聖徳太子は毎度すごいことを考えるなと思いました。日本も「皇」の文字を使えるようになってよかったなと思いました。

●聖徳太子はすごく頭がいいと思う。隋が戦争をしていることを見はからってその手紙を送った。このときがチャンスだとわかったからだ。そしてその読み通りになった。小野妹子のどきょうにもおどろいた。このことがなかったら、日本の天皇はいつまでも皇帝の家来だったかもしれない。ぼくは、「日出る処・日没する処」で怒ったと思ったが「天子」だった。たしかにその方が重要だった。

●聖徳太子が手紙を出すまでは、日本は中国の家来だった。それは少しイヤな気がした。聖徳太子は日本と中国を平等にすることにした。もしこの手紙がなかったら、日本はずっと中国の家来だったかもしれない。だから、この手紙は日本の将来を決めた大事な手紙なのだ。聖徳太子の国づくりの大方針は、どれも大切でほんとうにおどろく。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (6件)

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    こんにちは

    ここまで読みました。
    授業の風景などが浮かび、子供達の捉え方にも驚かされます。
    私も子供達と同じように考え楽しみつつ、長文なのに一気に読んでしまいました。
    このブログは授業のプログラムの参考にという意図で書かれていらっしゃるのだろうと思いますが、読み物としても素晴らしいと思います。

    こちらにたどりついたきっかけは、高校生の姪から日本史の授業が吉田松陰にほとんど触れず納得がいかないと聞かされたからです。
    私は姪が幼い頃、数冊の伝記をプレゼントしたことがあり、その中に松陰もありました。
    歴史好きな子で、そこから維新にも興味を持ったようで、その時代を学ぶのに松陰のことを教わらないということに違和感を持ったようです。
    今の授業はどんな感じなのだろうと思い、いろいろと検索した結果こちらにたどりついたわけです。
    かくいう私も学校の先生から、自分で考えることのできる楽しい歴史を教わった記憶はありません。
    母親が歴史好きだったので様々な本に触れる機会があり、特に維新以降の歴史は、学校より独自で知った事の方がはるかに多いと思います。

    学校の先生を、生徒が選ぶことができません。
    先生のような授業を受けられる子供とそうでない子供とでは、天と地ほどの差があるとつくづく感じます。
    暗記だけの歴史しか知らず、大人になってしまった人達にも是非読んでもらいたいブログですね。
    まだまだ日本は始まったばかりで、この先が楽しみです。

  • SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    姪御さんが導いてくださったのですね。
    ありがたい限りです。

    今回も涙なしでは読めないコメントでした。
    教員をされているわけではないようですので、
    よりいっそううれしいのですね。

    こういう長い文章は、絶版になってしまった本に載せた原稿です。
    ほかの授業はプランだけ投げ出したものですが、
    これらはビデオで撮った授業記録を起こしたものです。
    記録をそのまま文字化したのではなく、
    読み物として読めるように直したものです。
    ただし、児童の発言や感想文はできるだけそのまま載せています。

    ですから、授業プランだけのところは、
    読み物にはなっていません。
    読みにくいとは思いますが、
    どうかゆっくりたどってみてください。

    ありがとうございました。

  • SECRET: 0
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    こんにちは

    本になっているということだったので、アマゾンで探しました。
    先日届いたので、じっくり読もうと思います。
    読み終えたら、姪にも見せますね。
    ありがとうございました。

  • SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    こんにちは。

    『学校でまなびたい歴史』を買っていただき、
    ありがとうございます。
    アマゾンで2円などというのを知ると、
    いささかがっかりしますが、
    新しく刷ってくれる版元はありませんので、
    まだここにあることは救いです。

    ぜひまたお訪ねください。

  • SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    初めまして。

    先生の授業内容に目から鱗が落ちまして、思わずコメントさせていただきました。

    僕は未熟ではありますが、個別指導塾の教室長をさせていただいております。
    正直なところ、テストの点数を取ってもらうために、技術的な面ばかりを伝えていて、本当の教育とは程遠いところにいると感じています。
    点数があがって喜んでいる生徒を見るのは嬉しいことですが、「もっと伝えなければならないことがあるのではないか?」と悩んでいるところも多いです。
    自分なりに、各教科に興味を持ってもらえるように取り組んでいるつもりでしたが、先生のブログに出会い、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました(笑)

    生徒の自主性を本当の意味で重んじ、信頼して授業を進めておられるのを感じました。また、本当に良く練られた授業で「こんなに楽しい授業があるんだ!!」と感動しました。
    生徒にこのようなすばらしい授業のエッセンスだけでも伝えらるように、またブログのほうで学ばせていただきます。

    先生が長い時間をかけて生み出された授業をこのような形で拝見させていただいて本当に感謝しております。

    またお邪魔させていただきます。

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    ていねいな、お気持ちのこもったコメントをいただき、ありがとうございました。
    また、私の授業づくりの意図を心から評価していただいたように思われ、感謝感激です。
    このブログを始めたのは震災の直後でした。
    やてきたことを残していきたいという強い思いから始めたことでした。
    毎日200ほどのアクセスがありますが、このような懇切なコメントをいただくのは誠にまれなことです。
    繰り返しになりますが、どうもありがとうございました。
    使えるところがあれば、先生のお仕事に生かしていただければこれに勝る喜びはありません。
    だいぶ年を取りましたがもう少し励もうと思っています。これからもどうぞよろしくお願いします。

    私はFacebookをやっています。
    もしお近づきになれれば幸いに存じます。

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