聖徳太子2「天皇中心の国」



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聖徳太子2「天皇中心の国づくり」
●聖徳太子の国づくりの大方針の第2は「国のまとまりの中心は天皇である」という考えである。これを国法として明確に示したのが十七条の憲法であることを学ぶ。

1 お話「聖徳太子」を読む
 まず、プリントしたお話を読みます。


お話「聖徳太子」
 聖徳太子という名前は、太子の死後につけられた名前です。
 母の皇后が馬屋の前で産気づいたので「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」、一度に十人の話を開くことができたので「豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)」などとよばれていました。
 生まれたのは五七四年。父は用明天皇、母は蘇我氏の娘でした。後に妻となる人も蘇我馬子の娘です。このことからわかるように、聖徳太子は天皇家の皇子であるとともに、当時最も実力のあった豪族である蘇我氏の親類でもあったのです。

 聖徳太子には次のような言い伝えがあります。
 ・お釈迦さま(仏教の始め)の骨を左手に握りしめて生まれた。
 ・二歳の時、両手を合わせて東を向き、「南無仏(なむほとけ)」ととなえた。
・七歳の時、百済王の贈り物だった仏教の本をすべて読みつくした。

 聖徳太子は仏教を広めようとしていた蘇我氏のそばで育ったので、幼いころから仏様をおがみ、仏教の教えを学んで育ちました。十四歳の時に起きた蘇我氏と物部氏との戦いには、みずからすすんで参加し、手柄をあげています。仏教は日本の未来のためになると信じていたからです。

 けれども、蘇我馬子のすべてを信じていたわけではありませんでした。蘇我氏は自分の娘を天皇の妻にすることによって、天皇家の有力な親せきになり、いつの間にか天皇にならぶほどの大きな権力をふるうようになっていました。五九二年の冬には、蘇我馬子の家来の手で、崇唆天皇が殺されてしまいました。崇峻天皇は、聖徳太子のおじさん(母の弟)でした。

 大和朝廷の宮殿は、いまの奈良県の飛鳥(あすか)にありました。そこから見えるなだらかな山々を見つめながら太子は思いました。
「・・・風景は美しいのに、人の世はみにくい。思えばずいぶんたくさんの血がながされた。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。仏さまは、『命ある者はたがいに愛さなければいけない』と教えている。それなのに・・・・。大和朝廷(天皇)を中心にせっかくひとつにまとまった日本をもっともっとりっぱな国にしたい。それは馬子の力を利用できる立場にある私のつとめではないか・・。」

 そのチャンスは思いのほか早くやってきました。崇唆天皇の姉であり敏達天皇のおきさきでもあった「かしきや姫」が、次の天皇に選ばれたからです。推古天皇です。日本の歴史上はじめての女性の天皇でした。

 聖徳00太子は、推古天皇にかわって政治をする役目である「摂政(せっしょう)」になったのです。今の総理大臣のような役目です。太子二十歳のときでした。
 日本をりっぱな国にするために、私は何をすべきだろうか? 太子は考えました。


『今日は、聖徳太子が理想の国づくりのためにどんな政策を実行したか勉強していきましょう』

2 国際情勢を知る
『聖徳太子は、政治家として、つねに国際情勢をしっかりと見すえて考えていました。太子が15才(589年)のとき、漢(220年)の滅亡以来初めて、隋が中国を統一し、大帝国となりました。300年以上の混乱していた中国が、強大な帝国として統一されたのです。
 再び、強大な中国のパワーが世界におよび、中国(皇帝)中心の国際社会が生まれました。
 百済、高句麗、新羅の朝鮮の国々は、ただちに、隋に朝貢して、隋の皇帝の家来になりました。
聖徳太子も摂政になって数年後の、26才(600年)のときに隋に使節を送り(遣隋使)、隋の強大さを知りましたが、朝鮮の国々のようにすぐには家来になりませんでした。そして、まず何よりも、国のまとまりを強して、大和朝廷(天皇)の政治の力を高めようとしました』

3 聖徳太子の政治課題と実行

『聖徳太子は、隋の強大な力を前にして、国のまとまりを強くし亡ければならないと考え、まず603年に、次に604年に、その考えを実行しました。年表を見て答えなさい』

冠位十二階と十七条の憲法であることを確認する。

◆教師がかんたんに説明する。
 603年・・・官位十二階(天皇が役人の位を決め、位をさずける)徳(紫)・仁(青)・礼(赤)・信(黄)・義(白)・智(黒)の6つの位をそれぞれ大と小に分け、全部で12の位を定めたこと。これまでは家柄上下によってリーダーや役人を選んできたが、これからは、人物の実力を見極めて、天皇が役人(政治のリーダーたち)を選ぶようにした。
 
 604年・・・十七条の憲法(国の最高のきまりを定めた)

4 17条の憲法を予想する 
『摂政の聖徳太子は、どんなに実力のあるリーダーを集めても、天皇の下で実際に政治を進めるリーダーたちに、政治の正しい考え方や心構えを教え、守らせなければ、太子が理想とする政治は実現できないと考えました。聖徳太子はまず国のリーダーたちがりっぱでなければ、日本は立派な国になれないと考えたのです。こうして作られたの決まりがが17条憲法です。太子29歳、604年のことでした』


 みなさんはいま国づくりを進める摂政です。強大な隋中心の世界で国造りを進めるために、実力で選んだリーダー達にどんなことを要求しますか?
 次のような言葉づかいで、ノートに箇条書きにしなさい。「~を守りなさい」「~を進んでやりなさい」「~はやってはいけない」「~に気をつけなさい」
 どうしてそうすべきなのか、理由も書けたら素晴らしい!!


5分与えて書かせる。

5 17条の憲法を知る
*資料「17条の憲法」を配布する


聖徳太子「十七条の憲法」  ●わかりやすく直して短くしたもの●
一  和を尊び(仲よく助け合い)人と争うことがないようにしなさい。そうすれば政治が正しく進められます。

二  仏(仏教)の教えを大切にしなさい。そうすれば、正しい政治が行われます。

三  天皇のお言葉には必ず従いなさい。そうすれば国はひとつにまとまって発展できます。

四  リーダーこそ礼儀正しくしなさい。そうすれば下の者がそれにならいます。

五  富める者にも、貧しき者にも、公平な政治を進めなさい。

六  悪をこらしめ、善をすすめる政治をしなさい。それがない国はほろびます。

七  家柄や身分ではなく、その人の実力にふさわしい仕事を与えなさい。

八  国づくりの仕事にはひまがない。朝早く役所に来て、夕方おそくまで仕事をしなさい。

九  口先ではなく、うそいつわりのない真心の政治を進めなさい。

十  意見が対立しても国を思う気持ちは同じです。まず自分がまちがっているのではないかと考え、人の話をしっかり聞いて正しい道を見つけなさい。

十一 手がらを立てたら必ず賞を与え、間違いをおかしたら必ず罰を与えなさい。そのけじめがしっかりすれば国はまとまり発展します。

十二 国の中心は天皇ただ一人です。税は朝廷(天皇)だけが集めるようにしなさい。

十三 リーダーはおたがいの仕事を知り、いつでも代われるようにしなさい。

十四 リーダーは人をうらやんだり、ねたんだりしてはなりません。

十五 国のリーダーは、自分のすべてを国のためにささげなければいけません。

十六 民衆こそ国の宝です。彼らが忙しい時に国の仕事をさせてはいけません。

十七 国の大事は一人で決めてはいけない。おおぜいが話し合えば知恵が集まり、必ずに正しい道が見つかります。


 
 次の指示をする。
『これから先生が読み上げますから、自分の予想と似ているものがあったら○をつけなさい』

*読み上げながら各条に以下のキーワードをつけ、黒板にキーワードのカードをはっていく。

①和 ②仏教 ③天皇中心 ④礼儀 ⑤公平 ⑥善を進め悪を滅ぼす ⑦実力にあった地位【冠位十二階】
⑧勤勉 ⑨信頼 ⑩自己中心をやめ人の意見を聞く ⑪賞罰 ⑫税は国へ ⑬助け合い ⑭しっと心をなくす
⑮国のためにつくす ⑯国民を大切にする  ⑰大事なことは話し合いで決める

*1条ごとに、○がついた人数を調べ、1~2名発表させ、「偉大な聖徳太子と同じ考えだったね」とほめるながら、この作業を進めていく。

【解説】このステップが授業の核です。ここでたっぷり時間をとるために、前段階はさっさと進めましょう。小学生が考える理想の政治が、十七条の憲法にかなり追いつけることに驚きます。日本人なのですね。そして1つでも聖徳太子に近い考えがもてたら、本気でほめてやりましょう。児童は「聖徳太子と同じだった!」とびっくりし感激します。

*「憲法」のねらいを『十七条の憲法は、天皇中心に国を一つにまとめ、リーダー全員が、仲良く助け合って(和の精神)、国のために全力でつくすことを定めたものです。立派な国には立派なリーダーが必要だと、太子は考えたのですね』

6 太子の国づくりの大方針2
*冠位十二階と十七条憲法の共通点をまとめるかたちで、両者が、天皇中心に一つにまとまる国をつくろうとしたものであるとまとめる。
「冠位十二階」・・・天皇が位を決めさずける(天皇が国の中心であり、最高の位である)
「十七条の憲法」・・・リーダーたちは、天皇の言葉に従い、理想の政治を進める。

 聖徳太子の国づくりの大方針②をまとめる
『十七条の憲法の第三条と第十二条が、聖徳太子の国づくりの第2の大方針だと考えられます』

 【国づくりの大方針 2】 「天皇中心に一つにまとまる国」

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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