弥生時代3「邪馬台国の女王卑弥呼」



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弥生時代3「邪馬台国の女王卑弥呼」
●この授業の学習内容は、中華秩序の下で国家形成を始めた弥生時代の日本ということで、前時「弥生時代の王たち」と重なります。が、卑弥呼は「小学校学習指導要領」の42人の歴史人物の一人なので1時間やっています。何といっても「魏志倭人伝」という史料は魅力がありますから。冒頭の「卑弥呼をさがせ!」は、本宮先生(千葉県)のアイディアをお借りしました。

1 邪馬台国の女王卑弥呼
・プリント資料「写本コピー:魏志倭人伝」を配る。
・掛図「弥生時代のムラ:吉野ヶ里の想像図」、人物カード「想像画:卑弥呼」を黒板にはる。

『これは大昔の中国の歴史の本『三国志』の『魏志』の中の「倭人伝」をコピーしたものです』
『魏志』倭人伝

『歴史に登場する最初の有名人「卑弥呼(卑彌呼)」を見つけてマークしてみよう』

・教えあってマークする。○回出てきた!

『奴国王の時代から200年たちました。女王卑弥呼も中国の皇帝に金印をもらって、中国(魏・呉・蜀)の家来になったのだろうか? それとも、家来になるのを止めて、中国との親分子分関係(中華册封体制)から離れることができただろうか?」
選択肢から選ばせて、理由をノートにメモさせる。

A:中国の家来になった
B:中国の家来をやめて独立できた

挙手で意見分布をとり、理由を話し合わせる。

「ぼくはB,とくに理由はないんだけど、いつまでも中国の子分なのはいやだから」
「わたしはA,やはり当時の中国は日本よりもずっと先進国だし、強いから、まだ当分は家来のままだと思う」

など。ここはまあ、気持ちのやりとりが強く出るが、それでいい。
こういうステップを踏んで初めて、聖徳太子の偉大さもわかるようになるからだ。

ここで、まれに、邪馬台国の「邪」や卑弥呼の「卑」に気づいて、A説を展開する者が出ることがある。
前時の「倭」や「奴」という文字を使われていることに「かなりアタマにきた子」である。
既習事項を生かして考えられることは何よりも素晴らしいので、過剰なほめ方でほめる。
この後の学習にも積極的に既習事項を生かしていってほしいからだ。

気づく者がいてもいなくても、結論は次のステップで資料に語らせることにしよう。

2 資料「『魏志』倭人伝」を読む
プリント資料「邪馬台国と卑弥呼」を配り、これがさっき「卑弥呼」を探した中国語の本(漢字だけで書かれている)を「魏志倭人伝」を要約して、わかりやすい日本語にしたものであることを説明する。
教師がゆっくり音読する。


邪馬台国と卑弥呼(『三国志』の「魏志倭人伝」より)

 ・・・倭人は中国の東の海にある島々に、国をつくっている。
 もとは100以上の国に分かれていて、いくつかの国は漢の時代にわが皇帝陛下にみつぎ物を持ってきていた。今は30ケ国ほどになっている。
 倭の国に行くには次の国々を通って行く。韓国から狗邪韓国へ。ここではじめて海を渡って対馬国に着く。また海を渡る。一支国に着く。また海を渡る。末廬国に着く。それから伊都国、奴国、不弥国、投馬国を通って邪馬台国に着く。女王の都である。
 邪馬台国では、以前は男の王の時代が70年から80年続いたが、国が乱れ戦争が続いたので、国々の王が相談して一人の女性を王とすることに決めた。この女王の名を卑弥呼という。
 卑弥呼は神さまのお告げを聞くことができると信じられていて、多くの人々は女王のまじないや予言を信じている。
 すでに成人しているが夫はいない。弟が卑弥呼の占いにもとづいて政治を行っている。
 王になってからの卑弥呼を見た者はいない。
 1000人の女が女王の世話をしている。男子は卑弥呼の弟だけが女王の部屋に入ることができ、食事を運んだり女王の言葉を人々に伝える。
 宮殿があり、見張り用のやぐらがそびえ、城柵でかこまれている。いつも番人がいて武器を持って守っている。

 景初2年(西暦239年)、卑弥呼は魏(中国)にたくさんのみつぎ物を持たせて使いを出した。魏の皇帝の家来になるためである。
 その年の12月、魏の皇帝は卑弥呼にこう伝えた。
「おまえが倭の王であることをみとめてやろう。そのしるしとしてこの金印をさずける。」
 こうして使いの者は、倭の王であるしるしとして「親魏倭王」の金印をもらって帰った。
 卑弥呼は、邪馬台国の南にある狗奴国と戦争をした。狗奴国の王は卑弥弓呼という男の王である。
 卑弥呼は魏にその戦いの様子を知らせ応援を求めた。そのとき、魏の皇帝は役人を送って卑弥呼を応援した。卑弥呼の軍隊に応援の手紙や旗などさずけたのである。
 卑弥呼は死んだ。大きな山のような墓が造られた。その大きさ(直径)は歩いて百歩以上もあった。
 あらためて男の王を立てたが国中がこの王にはしたがわなかった。そのために戦いが起きて1000人以上が死んだ。
 そこで、一族の壱与という13歳の少女が王になった。
 この王によって、争いはおさまり、ようやく国中がまとまった。壱与も魏にみつぎ物を持ってきて魏の皇帝の家来になった。

【注意】この本(『三国志』)を書いた陳寿という中国人は日本に来たことはない。
    昔の記録や伝聞をもとにしてこの本を書いた。
    どこまでが事実なのかはわからない。
    『古事記』『日本書紀』という日本人が書いた歴史の本には、ヒミコという人物もヤマタイ国も出てこない。ヤマトならある。


卑弥呼も金印をもらって魏の家来(王)になったことを確認してから、

『資料を読んで強く印象に残ったところを発表しなさい』

列指名で発表させる。
吉野ヶ里遺跡や唐古・鍵遺跡の復元建築や出土品の写真などをいくつか見せる。
例えば、これは唐古・鍵遺跡に復元された楼閣。弥生土器に描かれた絵によって復元された。
卑弥呼の楼閣

行程の記述などを元に、各地に邪馬台国の候補地があり、九州説と大和説で学問の世界も大きく分かれていて、決着が付いていないことも教える。
卑弥呼も中華秩序(冊封体制)の下で国づくりをしていたことをまとめる。
卑弥呼の金印(親魏倭王)はまだ見つかっていない。

3 弥生時代は国家形成の始まり
弥生時代は日本の主食=米の始まりであり、やがて「日本」建国に到る国づくりの始まりでもあった。

小さなムラ→大きなムラにまとまる→クニができる→クニが大きなまとまりになっていく
矢印(→)の部分には、おそらく「戦争」や「交渉」があって、新しいステップに進んでいく。クニのリーダーは日本語では「キミ」などとよばれている。
「王(オウ)」は中国語だ。奴国王や卑弥呼は、シナ大陸の帝国:漢や魏に朝貢して、「王」に冊封された。
100あったクニが、邪馬台国のころには30にまとまってきている。卑弥呼はそれらの国々が支えているリーダーだが、まだ隣国とは戦っていた。
 まだ日本はまとまれていない。
 卑弥呼は死に、壱与があとを継いだ。
戦いは収まったようだが、日本建国はまだだ。
 そもそも、日本の歴史書(『古事記』『日本書紀』)には出てこない「邪馬台国」と2人の女王が日本建国とどうつながっているのか。まだ真相はよくわからない。
いよいよ次回は、日本建国の巻である。



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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (2件)

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    学校の調べ学習に使わせていただきました。
    ありがとうございました。

  • SECRET: 0
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    わざわざコメントをいただき、
    ありがとうございます。

    お役に立ててうれしいです。

    お目にかなうものがあれば、
    どうぞこれからもご活用ください。

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